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美しき尼僧伝説(1)

 
...................................................- Rena エピソードT -
 

星空 いき

Hosizora Iki
















午前のゼミの講義が終わり、皆が席を立ったとき女性教官レイカが研究員コイトを呼び止めた。教官のコードは、
....「392レイカ1722」 だ。
..この機関では、本名は公表されない。ふだんはコードで呼び合っている。( コード資料参照
レイカ:話しがあるんだけど、いいかな?時間はかからないわ。
..呼び止められた30歳の男性研究員は、
コイト:はい、喜んで。
..と、本当に嬉しそうに答えた。
レイカ:じゃ、わたしも少し休みたいからラウンジへいきましょ。
..二人は、ラウンジへ向かった。


..昨日、レイカの研究室でチヤイムが鳴った。Proro--鳴り続ける。考え事をしていた彼女は、受けるかどうか迷ったようだったが、大きな独り言で「OK]と答えた。すぐに部屋の中央にボスのダイセンダツ(大先達)が現れた。3Dホログラムだ。映像は生身のボスと見分けるのが困難だ。レイカは少し緊張する。重要な連絡は、ホログラムが使用される。メールでは、見落としや勘違いがどうしても避けられないからだ。互いに相手の表情や反応を見ながら話しあう。それが、最上だとされている。
..ボスは、レイカのチームに二つのtaskを依頼したいと言う。
ボス:一つは、犯罪者の捜索だ。
..説明によると、異時空間先導士ノニカが行方不明になっているという。そして、どうやら犯罪に加担している可能性がある。
ボス:それを捜して連れ戻してくれ。もう一つは、空間定点の現地調査だ。不調に陥っているので調査してほしい。どちらも簡単な仕事だ。二つのtaskのデータを君のサーバーへ送っておく。よろしく頼むよ。
..用件を伝えると、すぐにホログラムは消えた。
レイカ:簡単に言ってくれるわね。
..レイカは、軽いため息をつく。 空間定点というのは、三次元(古典タイプ)空間の移動指標定点のことだ。不調の場合、西暦1000年の、一番近くの空間定点へ移動して徒歩で現地に向かうことになる。かなり面倒な作業だ。レイカは、データにざっと目を通した。どちらかといえば、ノニカの捜索のほうが楽だろう。
..レイカは、またため息をついてチームのメンバーを思い浮かべる。チームで先導士資格があるのはレイカの他に3名、そのうち2名の作業予定を画面でチェックする。どうやら手一杯だと思われる。残りは、コイトだが、資格を取得したばかりで実務経験がない。レイカはしばらく考えこんだ。
..そして、いまそのコイトとラウンジで向かいあっている。
レイカ:初仕事やってみる?
..と、持ちかけた。
コイト:えっ、やらせてもらえますか?!
..コイトは目を輝かせた。レイカはペーパーPCを開き、任務の説明をした。
コイト:犯罪者の捜索・確保ですか…。
レイカ:嫌?それとも自信がない?他の仕事もあるわよ。そっちの方が面倒だけど…。
コイト:いえ、やります。なんだかおもしろそうです。で、どんな犯罪を犯したんですか?
..レイカは画面を繰る。
レイカ:ノニカだから…関東地方担当ね。…詳細は、不明。わかっている範囲では、「時間販売」をしたようね。
コイト:時間販売ですか…時間を売りつけた?
レイカ:ええ、5〜6人を対象に15件ほどやったようよ。空間座標はクザ3550-13959辺り、つまり旧T県のK市。そこを起点に関東一円にわたっているようね。時間座標ジザ197003**、西暦1970年・昭和45年3月。忙しいビジネスマンや研究者などに「時間を買いませんか?」ともちかけたらしいわ。
コイト:へえ〜、いくらで売ったんですかね?
レイカ:一日につき50万円らしいわね。正確な情報じゃないけど。
コイト:50万って、どれくらいの価値かな〜?
レイカ:昭和45年の初任給年収が、およそ100万円。
コイト:で、騙し取った、つまりサギをしたということですか?
レイカ:いえ、騙してはいないわ。この時空移動記録によるとちゃんと時間を増やしてやっているから、サギとはいえない。でも、あなたもセンダツ(先達)なんだから分かるでしょ、ニセ時間を作るのは、通貨偽造に等しい犯罪で、罪はきわめて重いのよ。
コイト:はい…そうでした。すみません。そのノニカが行方不明になっていて、それを探し出すのが任務ですね?
レイカ:そう。あとはノニカのデータを詳細にチェックして、自分で計画を立ててちょうだい。案ができたら、かならず計画書を提出するのよ。
コイト:もしかして、1970年(昭和45)で事故にあった可能性は、ないんですか。最悪の場合死んでるとか…。
レイカ:ないとは言えない。データがすくないのよ。だから、それも含めて捜索するのが、あなたの任務。
..コイトが去ったあと、レイカはもうひとつの任務のデータを詳細に検討した。それは、必然的にレイカの仕事になる。やがて、検討に疲れ庭園へ出てみた。しばらくゆっくり歩く。鳥のさえずりが聞こえ、風が渡る。
..不調に陥っている定点は旧G県T市の、まだ稼動してない補助定点だ。T市の定点から一番近い定点は、隣のN県M市だが、T市とM市は山脈を挟んでいるため平面移動には大きなエネルギーを要する。効率が極めて悪いのだ。そのため中継点となる補助定点を標高の高い中間地点に設置するのが、一年後の予定だ。が、一年後予定通り設置されたかは、今でもチェックできる。なぜなら現地に西暦1000年に設定予定だからだ。つまり、西暦2500年代の現在、理論上既に定点は存在することになる。アクセスはロックされ一年後からしかできないが、西暦1000年に補助定点が存在しているかどうかは、チェックできる。一年後の使用開始に向け準備していたのだが、なんらかのトラブルが発生したらしい。実際に現地に出かけるしかないと、トーサン(指令コンピューター=父さん)も判断している。 まず一番近いT市の定点へ空間移動して、そこで西暦1000年へ時間移動し、そのあとは徒歩で標高844メートルの現地まで山道を登らなくてはならないのだ。それなくしては、何事も始まらない。つまり、平安時代末期に草鞋履きで山深い獣道を辿るしかない…思わず叫びたくなる。もちろん護身用の軽微な武器は持っているが、とんでもない仕事だ。
タルイ:どうかしましたか?レイカ先生。
..近くで男の声がした。振り返ると、ダイセンダツ(大先達)の同僚タルイが笑いかけている。どうやら、無意識に声を発してしまったらしい。
レイカ:いま、わたし、なにか言いました?
タルイ:なんだか、ギャッて叫んだようでしたよ。お忙しいようで、お疲れじゃないんですか?
..タルイは近くのベンチを手で指して勧め、二人は並んで掛ける。
タルイ:飲み物を取り寄せましょうか?
..レイカは、手を振って断る。
タルイ:ところで、ノニカの捜索は、先生のチームでされると聞きましたが…。
..タルイはノニカと年齢は違うが、学生時から共にこの機関の研修を受けた、いわば同級生なので、失踪を心配している。レイカは、捜索をコイトに任せた事を告げた。
レイカ:なにか、失踪の心当たりはない?
タルイ:さあー、これと言って思い当たらないけど、もしかしたらジクウシンドロームの兆候があったのかな、という気はします。
レイカ:ジクウシンドローム…時空症候郡。そんな気配は、あったの?定期検査はしているんでしょ?
タルイ:ご存知のとおり、ジクウシンドロームかどうかの判定はむつかしいですからね。
..ジクウシンドロームに陥る異時空間先導士は多い。まだ先導士自体数が少ないので、詳細な割合をつかむことはできないが、50%近くにも達するのではないかという説もある。レイカは、その症状について思い返していた。時間移動を頻繁に繰り返していると、「時間学」で学んだ「時間次元にベクトルは存在しない」という大原則を体感するようになる。時間の羅針盤が消滅し、自分の時間がわからなくなる。それは「時間の無重力状態」と呼ばれているのだが、レイカもある程度体感している。重症化すると、ある日突然「自分は何千年生きれば、いいのか?いつ自分は死ねるのか!」と訴える者さえ現れる。ぼーっと考えていると、タルイが言った。
タルイ:彼は、繊細なタイプだから疲れたのかもしれません。酒量も増えていたようですし。
レイカ:そうなの?…今日コイトから計画書が出れば、あすには、全容がつかめるから、すぐ分かることだけど。
タルイ:ところで…
..とタルイは話題を変えた。
タルイ:先生の論文、拝見しました。驚きましたよ。大胆な仮説ですね!承認されれば、「ボダイ(菩提)」に昇格だとみんな噂してますよ。もちろん、歴史上最年少のボダイですよね!いやー、おめでとう、ございます!
レイカ:よして。なりたくて発表した訳じゃないわ。
タルイ:だけど、驚きましたよ。初めて先生のゼミに参加した時、講師がまさかわたしより若いダイセンダツだとは夢にも思ってなかったから、ホント、「狐につままれる」て、こういう気分なんだと実感しましたよ。もっとも一度も狐に摘まれた経験はないですけど。先生は、センダツになられたのお幾つでした?
レイカ:ジュニア・カレッジ在学中の17の時この機関に誘われて、1年後にセンダツに推挙された…
..そこでレイカは、笑った。
レイカ:なんか知らないけど、すごい物くれるっていうからワクワクしてでかけたのよ。そしたら賞状を挟んだファイルイ1個だったので、「これだけ?」って思ってがっかりした。それにICカードが添えられていたんで、「ああ、これがキャッシュカードなんだ」と喜んだら、ただの認証カードでまたがっかりよ。
..二人は、大きな声で笑う。
タルイ:ドクター(博士)でも、センダツになるのは難しいのに、18でセンダツですか。
コイト:ちがうわ。なまじドクターだから難しいのよ。昔、設立当初は理学や宇宙物理学のドクターしか採らなかったのを大変革して、10歳から採用して教育することにしたの。それでようやく成果が目に見えてきたのよ。あなたもドクターじゃなかった?ダイセンダツになるまでかなり苦労したんじゃない?
タルイ:ええ、正直諦めようと何度も思いました。
コイト:そうなのよね、どうしてもベクトル数学の枷がはずれないので、指導側も研究生もともに苦労するのよ。
タルイ:わたしも、それで指導に悩んでいます。ところで、そろそろお昼ですね、ご一緒していいですか?
..レイカは「やる事があるから」と断った。taskの計画書を作成しなくては落ち着かないし、明日の講義の準備がある。タルイと別れて部屋へ戻り、しばらく考えた。西暦1000年への移動は、できれば避けたい。そこで閃いた。もっと後、西暦2000年で異常がなければ、それ以前に異常はないはずだ。1000年分も移動が稼げて楽になる。では、どの辺りがよさそうか…?
レイカ:トーサン、「旧G県T市一帯、江戸時代、地図」をお願い。
..と声に出して言う。壁面に該当の地図と詳細な情報が現れた。1700年頃には、補助定点の近くを細い街道が通り人の往来があるようだ。山を下ると田畑も開け、小さな集落が点々とできている。しばらく考えたが、まずは1700年で調査しようと腹が決まった。少なくとも平安時代よりは、ずっと気分が楽になる。早速計画書の様式を呼び出し、項目を音声入力するとすぐに「トーサン」へ提出した。とりあえず一仕事終了だ。夕方までには回答があるだろう。お昼にするかと思ったとき、Piroro…PCが呼んだ。コイトから計画案が届いた。fuu…、目を通していると、
..オ昼ガマダデスネ。オススメヲオ届ケシマスカ?
..部屋に音声が流れる。レイカはスクリーンを見つめたまま、
レイカ:そうね。たのむわ。
..と、答える。コイトの案を軽微に修正し「承認」する。壁にWindowが開き「オマタセシマシタ」と昼食が届く。できたての料理を目の前にすると、さすがにお腹がすいていたことを実感する。食事を始めるとすぐにVang!と吠える声がした。足元を見るとフォックス・ハウンドが尻尾を振ってレイカを見上げている。部屋で飼っているロボット犬だが、本物と見分けがつかない。
レイカ:あんたはいらないでしょ。人間は不便よね。一日に三回、100年で54,750時間も費やすなんて。でも、こればかりは錠剤で済ますわけにはいかないのよ。                                            
..センダツ以上は自室が与えられるのだが、犬や猫と同居している者は多い。が、みなロボットだ。本物は、管理や衛生面から禁止されている。なかには、花の温室状態、あるいは蛇・蜥蜴の爬虫類が溢れている部屋、一日中古典音楽が鳴り響いている部屋など、それぞれに個性的だ。
レイカ:とにかく、仕事を減らしてもらわなくちゃ、かなわないわ。
..レイカは異時空間先導士の他に、ジュニァ・カレッジ、ドクター・カレッジの講師も勤めている。先導士は体力がいるし、講師は浪費時間と気苦労が多い。以前から減らすよう訴えているのだが、なんといってもダイセンダツ以上の有資格者が少ないのだ。どうしても次々と仕事が廻ってくる。自分の研究に気力・時間が割けないことがフラストレーションになる。
..あしたは、ドクター・カレッジ新人の2講目だ。一般大学院の博士課程やジュニァ・カレッジ終了の者が対象だ。だから年齢もさまざまで16歳から30歳までいる。
レイカ:やっぱ、食いつきのいい、あのテーマで地獄に落ちてもらうかな。
..と、レイカは口をもぐもぐさせながら犬の頭をなで、もう片手でメモする。

..最初が肝心なのだ。とくにドクターたちは、完膚なきまでに叩き潰さないとその後の発展がない。ベクトル理学で固まってしまった頭を異時空間にまで広げるには、一度「自己否定」のノイローゼ地獄に堕ちてもらわなければならない。そして、「蜘蛛の糸」のカンダタのように光りを求めて這い上がってくる。それしか方法がない事をレイカは、指導経験で学んだ。だから当分、講義は「研究生を徹底的に地獄に落とす」ことにエネルギーを費やす。それでもジュニァ・カレッジから上がって来た者は、軽症で済む。10歳ころから、将来を見越した指導を受けてきているのでダメージを殆どうけないからだ。
レイカ:ま、地獄に落ちてもらいましょ。
..と微笑むと、レイカはデザートの白桃をスプーンで刺した。
................................. 称号と範囲


..午後2時5分コイトがレイカの部屋にやって来た。ホログラムはダイセンダツ以上の部屋にしかない。わざわざ来ても不思議はないが、出向いて来たのはそのせいばかりではなさそうだ。
レイカ:もう済ませた?ノニカは?
コイト:はい。見つけましたが…。
..なぜか歯切れが悪い。
レイカ:どうしたの?なにか問題でも…。
コイト:ええ、ちょっと。時間がかかりますが、よろしいですか?
..レイカは時刻を確かめる。
レイカ:そう、10分ならいいわよ。
..レイカはとっさに、後で報告書を読むより今聞いた方がいいと判断したようだ。

..コイトは、計画書の「承認」を受けると直ぐに転送センターへ向かった。そこでチェックを受け着替えを済ますと、転送先で使用できる現金、護身用の特殊銃などを受け取った。そして転送室に入る。Wiiinn…幽かな音が流れ出し、床に光る円が現れる。コイトにとって初めての一人旅だ。かなり緊張する。
..着いた先はクザ3550-13959の定点、つまり旧T県K市の古い神社の土蔵の中。ジザ197005171000、西暦1970年・昭和45年5月17日10時だ。無事に移動を終えた報告をセンターに送り、外に出る。なんとなく周囲を見渡して、歩き始める。
コイト:これが、昭和45年の春か…。
..計画では、ここから市街地に行き斉藤を尋ねる。斉藤は、ノニカに時間販売を持ちかけられた。つまり時間を買ったことがはっきりしている唯一の人物なのだ。だから直接会ってどんな事があったのかを聞き出さなくてはならない。斉藤は、国家公務員でいわゆるキャリアだ。本省勤務で、毎日忙しくしている。特に予算編成時期などは、二ヶ月も役所に止まりこんでいる。普段は、そこまででは無くても帰宅が午前0時過ぎが普通だ。できるものなら、人の倍の時間がほしいだろう。そして、恐らくノニカはそこに目を付けたと思われる。
..コイトは、地図を見ながら斉藤の家を捜す。持ち運べるPCはおろか携帯電話さえまだない。分かってはいるのだが、ついポシェットに手がいきPCを捜す。そして頼りは紙の地図だけなのを思い知らされる。何度か同じ場所を行きつ戻りつして、ようやく斉藤の家を見つけた。今日の日曜日を選んだのは、家にいる確立が高いと判断したからだ。平日に会おうとすれば、役所に訪ねるしかない。仕事中では、ゆっくり話しを聞くのは無理だろう。だから、こんな面倒な方法を選択した。インターホンで尋ねると、在宅していた。寝ていたらしくぼさぼさ髪で玄関に現れた。40代後半くらいに見える。コイトは自己紹介する。
コイト:コイトと申します。先般お世話になりましたノニカの事でお話しがございまして、お伺いいたしました。折角のお休みを申し訳ございませんが、ほんの少しお付き合いいただけませんでしょうか?
サイト:ノニ…、ああ、野中さんのことかな?
コイト:ああ、はい…
..と、コイトは曖昧な相槌をうつ。<野中と呼ばれていたのか>
サイト:えー…っと、コイ…
コイト:コイトです。
サイト:ああ小井戸さん。あなたも旅行社の人ですか?
コイト:ええ、ま…。
..ノニカは野中と呼ばれ、旅行社の者だとふれこんだようだ。<そして、自分は小井戸だな。忘れないようにしないと…>できれば外でお話できないかと、コイトは斉藤を誘い出した。家族に聞かれたくないことに話題が及ぶかもしれない。そうなると、本当の事を聞き出せないだろうと、判断したからだ。斉藤は着替えるとすぐに出てきた。待っている間、コイトは斉藤が不機嫌な態度をとらなかったことに安堵していた。「あっちに公園がある」と歩いて行く斉藤にしたがう。
サイト:で、なんの話しかな?
..ゆっくり歩きながら斉藤が訊く。
コイト:はい、実はノニ…野中が行方不明になっていまして…。
サイト:行方不明?そりゃ、またどうして?
..小さな公園のベンチに掛ける。子どもが4〜5人走り回っている。
コイト:わかりません。ですから、どなたかご存知ないかと捜しています。なにか心当たりはないでしょうか?
サイト:そう言われてもなー…。
コイト:そもそも、どうしてお知り合いになられたんでしょう?
サイト:どうって、彼の方から声を掛けてきたんだよ。あれは、年度末の忙しい時期だったから、3月の初めころかな?珍しく9時に帰れたんで、途中の乗り換え駅で一杯ひっかけるかとバーに寄ったんだ。
..カウンターに掛けると、すぐあとに隣へ30代のサラリーマンらしき男がやはり一人で掛けた。1杯目が空くころ、
ノニカ:お宅も、サラリーマンですか?
..と、声をかけてきた。「そうだ」と答えると、「日本のサラリーマンって忙しすぎますよねー。そう思われませんか?」と同調を求めた。それから当たり障りのない世間話をして、その日はそれきり分かれた。まさか、もう一度会うこともないだろうと思ったので、それきり男の事は思い出しもしなかった。ただ、別れ際にブリーフケースからリーフレットを出し「よろしかったら、後でご覧になってください」と手渡した。ちらっと見るとどこか南の海辺らしい光景に、水着の美女が微笑んでいた。
サイト:あれは不思議な経験だったなー…いや、夢と言った方がいいのかな?
..斉藤は、そこで笑った。その表情から楽しい思い出になっているらしい事が察せられる。<だからか…>と、コイトは思う。<だから、初めにノニカ(野中)の名を出した時に嫌な顔をせず、こうしてすぐに話しに付き合ってくれたんだ>
サイト:でね、3日くらい後だったかな、役所へ彼が訪ねてきたんだ。正直、もう顔なんて覚えていなかったから、思い出すのに少し手間取ったよ。「忙しい」と言うと、「本当に一分でいい。立ち話でいいから話がしたい。あなたにとってもいい話しだ」と言うんで、廊下の端のコーナーで立ち話しをしたんだ。「毎日お忙しいでしょう。でも、だからこそ休養が必要です。わたしは、それが提供できます。一日南の海でのんびり過ごしませんか。運がよければ美女との出会いもあるかもしれません」と言うんでな、「そんな時間は、逆立ちしたって出ない」と言ったら、「時間は返します。ですから、時間を割く必要はありません」て言うんだよ。
コイト:それで?
サイト:こいつ、頭がおかしいんじゃないかって思った。
..その日ノニカ(野中)は、本当に一分で引き下がった。斉藤は部屋へ戻る途中「南の海、美女か…時間を返すって、どういう意味だ?」とつぶやいていた。
..それから何度かノニカ(野中)は、斉藤の前に現れた。本省の財政企画課へ来ることもあったし、帰宅時に外で待っている事もあった。更に、帰宅したらダイニングのテーブルに例のリーフレットが置かれていたことがあり、妻が「スーツのポケットに入っていた。要るものかと思いとっておいた」と言った。そのころには、もう何度かノニカ(野中)と会っていたので、彼は初めてまじまじとリーフレットを眺めた。それが、妻には怪訝だったのか「沖縄へ連れてってくれるの?」とはしゃいだ。もちろん自分がはずされるとは思っていない。「いや、駅で配っていただけだ。捨てる所がなかった」とだけ答えたが、初めて関心が湧いた。そして、次にノニカ(野中)に会った折訊いた。「時間を返すってのが、わからん」それに対しノニカ(野中)は「ごもっともです。でも、こうならどうでしょう。料金は後払い、つまり旅行が済んでからお支払いください。もしその時時間が返っていなかったら、お支払いはいりません。それならよろしくないですか。なぜ、時間が返せるのか、その説明はとてもむつかしいのでご理解いただけません。あなたの知らない所で科学はとてつもなく進歩しているのだとご理解ください。それに、私どもが勧誘するのは特別な選ばれた人のみです。だれでも参加できるわけではありません。この機会をみすみす逃しますか?」
..斉藤は黙り込んだ。そして、南の海辺のバカンスは彼の心に深く入り込んだ。役所に泊まり込むことも多いので、ロッカーには下着を初め着替えなどが2日分はいつでも揃っている。後は水着があればいいだけだ。そして、慌てて頭を振った。<バカな。オレはなにを考えてんだ!?>だが、現実には、帰りの電車に揺られていても太陽輝くビーチが浮かんでくる。
サイト:そしてね、気がついたら駅ビルで水着を購入していた。
コイト:結局野中(ノニカ)の話しにのられた?
サイト:ああ、「後払い」が効いた気がする。それなら、どんな手品をするのか、乗ってみようじゃないかって気になった。
コイト:で、いくらでしたか?
サイト:僕は一泊して50万円。二泊で100万円のコースもあるらしい。
..そして不可思議な旅行は実行された。平日の21時、斉藤が勤務を切り上げ省内の駐車場に向かうと野中(ノニカ)が待っていた。そこで、野中は、 今の日付と時刻を確認するよう求めた。斉藤は言われたとおり時計を見て言った。「3月18日午後9時5分」
..車に乗りしばらく走った所でアイマスクをするように手渡された。それも前もって聞いていた。「企業秘密」に関わることがいくつかあるので、変わった要求が 1〜2ある、と。マスクは、顔に触れると吸い付くようにぴったりと張り付いた。出発から小一時間走って車を降り、手を引かれて建物の中に入ったようだった。さらに言われるまま椅子に掛けた。そして野中(ノニカ)が言った。「いまから、ジェットコースターに乗った状態になります。体が浮くような感じになります。もしかしたら、少し気分がわるくなるかもしれませんが、すぐにおわります。ちょっとだけ我慢してください」
サイト:ほんとうにジェットコースターに乗せられたかと思ったよ。すごい速度で落下して上昇したようだった。ほんのちょっとの間だったけどね。
..そして、手を引かれ外へ出てまた車に乗った。が、さっきの車とは顕かに違う気がした。しばらく、15分ほど走り車を降りるとようやくマスクが取られた。
サイト:いあー、驚いたのなんの…。
..椰子の木が風にそよぎ、目の前に海が輝いている。そして背後には高級そうなホテル。まさにリゾート地を絵に描いたような光景だ。ホテルの部屋に通された。野中(ノニカ)は「わたしは、一旦失礼します。明日9時にお迎えに参りますので、それまで存分にお楽しみください。時間厳守でお願いします。でないと、元に帰れなくなるのでお気をつけください」と去った。
..斉藤の話しでは、その後ビーチでゆっくり楽しんだという。特筆すべきは、ボールで遊んでいる女性グループを見ていたら「いっしょにやりません?」と誘われたことだ。それから後はずーっと一緒で、食事もラウンジのカクテルもともにしたらしい。
サイト:いやー、たのしかったなー。
..そりゃ、そうだろうと、コイトは思う。そして、なによりもノニカのアイディアに感心した。「時間を売る」にしても、「じゃ、その分役所に残って仕事がしたい」と要求されると、できなくはないが技術的に相当に面倒な事になる。ほとんど不可能に近い。が、斉藤に持ちかけた案なら実に簡単だ。よく考えついたもんだ、と思った。そして逆のコースを辿って、二人は役所の駐車場に戻った。アイマスクを取った斉藤にノニカ(野中)は時間をたしかめるように言った。斉藤は、リストウォッチを見て言う。「3月18日午後9時5分…あー、どうして?時間が経ってない?」「確認していただけましたね。わたしは、間違いなくあなたに1泊の旅を販売しました。そしてあなたはそれを消費しました。よろしいですね?」斉藤はこっくりと頷いた。「では、明日の正午に現金で集金させていただきますので、よろしくお願いしますね。さ、奥さんが帰りを待っていらしゃいますよ」
コイト:で、翌日お支払いをされた…。
サイト:ああ、妻に内緒のヘソクリをしていたんで、それで払った。
コイト:そうですか。それで、今はその旅行についてどう思っていらしゃいますか?
サイト:うーん。変な気分というのが正直なとこかな…。
コイト:変な気分?と、言いますと?
サイト:だんだん実感が薄くなって、三日も経ったら、あれは夢じゃなかったのか?という気がしてきた。もしかして、薬でも飲まされて催眠術をかけられたんじゃないかと、疑いが湧いた。
コイト:そうですか。
サイト:ところがね。妻が文句を言ったんだ。
コイト:文句ですか?
サイト:ズボンの折り返しが、砂だらけだって。「どこか公園の砂場にでも入ったの!」て言うんで、見たらね、確かに白い砂が入っていた。あの浜の砂だった。ということは、やっぱり夢じゃなかった。小井戸さん、どういうことなのか教えてもらえないかなー。
コイト:申し訳ないですが、それはお教えできません。それに、恐らくご理解いただけないと思います。それで、その後野中(ノニカ)にお会いなりました?
サイト:いや、会ってない。実は、一度連絡をとろうとしたんだけどね。うまく連絡がつかなかった。彼、行方不明だって?
コイト:ええ、でもどこへ行ったかご存知ないですよね。
サイト:そういう事だから、何も知らないなー。もうそろそろいいかな、子どもを遊園地に連れていかなきゃならんのでな。折角の日曜ぐらいゴロゴロしていたいよ。
..斉藤は立ち上がった。コイトは頭を下げ、時間を取らせたことを詫びた。斉藤は挨拶がわりに片手をあげ背をむけて歩き出す。5〜6歩も進んで、
サイト:ああ、ひとつ思いだした。
..振り返った。
サイト:参考になるかどうか分からんが、あのこ(娘)ならなにか知ってるかも…。
コイト:え!なんでも結構です。ぜひ教えてください。
..永く財政企画課の庶務をしていた女性が、最近退職したという。そして、
サイト:噂だよ。単なる噂だけどな、彼女と野中さんが付き合っていたんじゃないか…と近頃耳にしたなー。
コイト:ほんとうですか!その女性は今どこにいらっしゃいますか?ご存知では?
サイト:知らないよ。なんでも、いなかに帰ったとか…けど、「火の無い所に煙」を立てたがる連中の、根も葉もない噂話しだから当てにはならんよ。


..レイカはふーっとため息をついた。
コイト:どうしますか?10分経ちましが。続きは、のちほどにしますか?
レイカ:そーね。残りはどれくらい?
コイト:ここからが本題ですので、いまより永くかかるかも…。
レイカ:じゃ、続きは後で。連絡するわ。
..レイカは、自分のtaskに戻った。移動先の予備知識を心得ておかなければならない。江戸時代中頃の山中だが、一応街道も通っている。人に出くわさないともかぎらない。言葉は、携帯用のゲンヘン(言語変換機)があるから心配ないが、ある程度時代の常識がないと不審に思われる言動をとったりしかねない。娘なら頭は桃割れ、武士の子か百姓の子かでは、着物もちがう。さらに季節も考慮しなくてはならない。もちろんそれらは、専用スタッフが配慮してくれるが、異時間への移動というのは、かなり大変なことなのだ。だから、先導士は担当の地域と時代が区分されている。レイカのコードの「1722」は、17〜22世紀担当と言う意味だ。これの変更も訴えている。範囲が広すぎる。江戸時代と平成以降では、なにもかもまるで別世界だ。それを一人で担当するなんて無茶を通り越している。が、いつも答えは同じ--もう少し我慢してくれ。センダツ以上の有資格者が、まだまだ足りないのだ。
..レイカは、提出した計画書の希望項目に「髪型は変えない」と記入して置いた。今回の任務は、別時間に3回は出かけなければならないだろう。そのつど島田に結ったり大正モガのきついパーマをかけたりなんて面倒は勘弁してほしい。あとは、スタッフが考えてくれる。1時間経過し、出発の気持ちは固まった。
レイカ:トーサン、ありがとう。もういいわ。
..レイカが言う。「そうか。大変だけど、がんばってな。お前ならできる」と、壁面の映像が消える。そこへ「ハーイ」と入って来た女性がある。レイカの友人マニホ(麻里)だ。ジュニァ・カレッジからの友人でずっと共に学び共に遊んできた。29歳で、レイカより半年ほど年上だ。既にいくつも仕事をこなしている。が、レイカと共にダイセンダツに昇格できなかったのには訳がある。性格が大雑把なのだ。従って、仕事のこなし方も大雑把だ。高い知能指数があり、判断力に問題はないのだが、生活人としては、「困ったもんだ」とレイカも思っている。
レイカ:どうしたの?研究行き詰った?
マニホ:わかる?
レイカ:分かるわよ。その顔見れば…。
マニホ:ねえ、Renaちゃん、聞いてよ。
..マニホは、永い友人なのでコードでは呼ばない。
マニホ:やっぱり、進化してるのよ。
..と、マニホはレイカに訴える。1年ほど前ちょっとした事件があった。マニホのロボット犬のようすがおかしくなった。別のロボット犬をしつっこく追い回すというのだ。それを見た研究者の一人が「盛りがついたとしか思えません」と言った。犬の専門家にもその行動を見てもらった。そしてやはり「結婚行動と思われる」と判定された。大方は否定したが、一部のコンピューター専門家の間で「ありうるかも…」と云う意見がでた。それには、それなりの根拠がある。
..2000年代初めころのコンピューターといえば、当然スカラー形だ。それで実験的にアメバーもどきが作られたことがある。5oの小さな自走セル(細胞)ロボットを100個作り、暗箱に閉じ込める。暗箱には1個分がすり抜けられる程度にたくさんの柱が立っている。出口となる唯一の出入り口に光りを当てる。そして、どんな行動をとるか見てみようという実験がされた。はじめは、それぞれがばらばらにうろつくだけだったが、しばらくすると数個づつが行動を共にして半日かかって全部が外へ出ることができた。次の日、同じ実験を繰り返すと固まりの数が増えた。10個ていどで群れになり1時間ほどで全てが外へ出た。三日目には最初から一塊となって、障害となる柱を抱き込むようにして進み、10分で外へ出られた。一塊になって全体を変形させながら進む様子は、アメーバーか粘菌そのものだと言う。そして、この実験は「生物とはなにか」「そもそも命とはなにか」という思わぬ論争に発展した。さらに、50年後コンピューターがベクトル型に交代して、同様の実験が行われた。アメバーの行動も飛躍的に高度化した。まず100個が全体に散らばり、出口を見つけたセルが近くのセルに伝達する。2〜3秒で全体に情報が行き渡り、全てが出口へ向かって動き出した。この頃同時に量子コンピューターが処理速度を飛躍的に向上させたが、チップの小型化に難点があり有機型と住み分けが進んだ。さらに20年後有機チップに生物の遺伝情報の一部を転写することが一般的になった。マニホの犬の結婚(交尾)行動が、一部のコンピューター専門家たちの関心を引いたのは、当然の結果だった。研究チームが立ち上げられ、マニホも希望して参加している。レイカは、ときどきマニホから進展具合を聞いていた。
レイカ:前に聞いたのは、「進化すると仮定して、どこからそのエネルギーを得ているのか」それを確かめるためにチップを日光に当てて比較検討する、という事だったよね?
..マニホは頷く。そして説明した。有機チップになって、刺激に反応するようになった事が判った。そして有機であるがために、エネルギーを大気や日光から効率よく吸収しているらしい、それで自らを変質させるようだ、まるで意思があるかのようだ…マニホは、そこで大きなため息をついた。
マニホ:あーあ、落ち込むなー。
..マニホは天井をみあげる。
レイカ:どうして?研究は順調そうじゃない?
マニホ:ロボット犬でさえ恋をするのよ!どうして、わたしには恋の花が咲かないの!
..<え!?そっち?>レイカは目を見開いて見つめた。そして、思わずふきだしそうになったのをこらえた。
マニホ:Renaはいいわよ、美人だから男なんて選り取りみどりでしょ。わたし、ロボットにさえ負けてるのよ!どうしてくれんの!顕微鏡でチップを見てるとね、こいつにさえ負けてんだと情けなくなるよ。
..レイカは、話題の方向転換をはかる。
レイカ:じゃ、チップは刺激によって変質するんだ。
マニホ:そう、それにチップ同士でデータ交換をしているらしい事が最近わかってきた。そうやって、ゆっくりだけど変質していくらしい。それも、恐らく進化の方向へね。チップが有機になったせいだと考えられる。
レイカ:おもしろい話ね。
マニホ:そうだけど、怖い話しともいえる…。
..それからレイカは、こん夜「男のいる所へ飲みに行こう」と提案してマニホを元気づけた。マニホは、
マニホ:よーし!男を釣り上げるぞ!
..気合をいれると、機嫌よく部屋を出て行った。
..4時ころになってレイカの計画が承認された。彼女は転送センターへ向かった。ゲートのような物が三つ縦に並んでいる。それを見るといつも稲荷神社の鳥居を思い出す。小さかったころ祖父の家の近所にあった稲荷は、怖い場所だった。目の鋭い狐が両側から睨んで見下ろしていた。その先、重なるように並んだ鳥居を潜っていくのは、とんでもない恐ろしい場所へ連れて行かれるようで、足がすくんだ。
..一つ目のゲートは顔認証などで本人確認がされ、二つ目に進むと健康状態がチェックされる。三つ目は透視線で禁止物の持ち込みがないか調べられ、三つともパスできると正面の扉が開く。その間15秒ほどだ。 部屋は明るくかなり広い。中に入ると、「五番ヘドウゾ」と聞こえた。五番の小部屋に入る。正面は全身の写る大きな鏡で、化粧室というか、美容院のようだ。テーブルには今日の衣装が並んでいる。レイカは早速衣服を脱ぎ始めた。そこへ「失礼します」と女性が入ってきた。スタッフはロボットではない。こればかりは人間でないと務まらない。レイカは今日の衣装を手にとってみた。木綿の、黒く細かい縞の着物だ。しげしげと眺めていると、スタッフが言った。
スタフ:旅支度風のほうがよろしければ、用意してございますが…。
レイカ:そうね…とりあえず、これで農家のおばさんにしてみるわ。頭はどうするの?
..黒の軽衫(かるさん)を穿き、頭は白っぽい手拭で髪型とゲンヘン(言語変換機)を隠した。その上に使い込んだ菅笠を被れば怪しまれないだろう。レイカは鏡で出来上がりを確認すると、現地の現金と特殊銃、熊避けの超音波発信機などの入ったネコダ(藁の背嚢)を受け取って転送室へ入った。


..レイカの着いたのはジザ170105150900(時間座標1701年5月15日9時)、クザ3606−13715(空間座標G県T市)にある中規模の武家屋敷だ。T市の近郊で、町の中心の代官所までは徒歩で小一時間。屋敷の周囲は見渡す限りに田んぼと原野だ。武家屋敷に寄り添うように小さな別棟がある。そこが、移動定点なのだ。ここら一帯の大地主の村役から地所を買い取り、建物を建てて代官所に進呈した。代官は、別宅として使用しているが実際には殆ど空き家状態だ。進呈の折、「別棟は旅の僧など困った者たちの救済宿に使用する」許可を受けて了承された。したがって、近所の農民たちは代官所別邸には恐れをなして近づかないし、別棟にたまたま見慣れない者が出入りしていても怪しまれない。明治には官有地となり、中期に気象庁の測候所が設置される。そのころまでに定点機能は地下深く移動され、その後永く使われ続けることになる。
レイカ:さーて、行くか!
..レイカは気合をいれると東の方向へ歩き出した。遠くに真っ白な山塊が輝いている。目的の補助定点まで二時間半の予定だ。初めの半分は平坦地で、残りが急峻な山道になるはずだ。農家の人々は朝の仕事が一段落し小休止しているころだ。幸い天気はよさそうだ。
..鳥の声を聞き、風の息吹を心地よく受けながら、汗だくになって山の獣道をたどったが、新緑輝く山はすがすがしく霊気さえ感じた。途中町人や農民を何人も見かけたが、言葉をかわすほどの距離では出くわさなかった。杖をつき黙々と登った道が平らになり、見渡しても近くに高い山がない所まで来たとき、少し広い道に合流した。レイカは「これが街道だな」と納得した。広いといっても、二人で並んで歩くには窮屈なでこぼこ道だが、あきらかに獣道ではない。周囲は比較的平坦な地形で、登りつめたのだと分かった。白樺の木々が林を作り、その白さが辺りをあかるくしている。光りがあふれ、どこか別世界だ。まるで、後の時代の高原の別荘地の見本のような光景だ。
レイカ:わー、すてき。いいところじゃない。
..レイカは思わず声に出して言った。この近くに問題の補助定点があるはずだ。レイカは背負った荷から携帯電話のような物を取り出すとスイッチを入れる。もし補助定点が故障していても、微弱な電波はでているはずだ。それで所在地がわかる。受信のインジケーターをゆっくりなぞって電波を捜す。と、突然Biiii--と強い反応があり、画面の同心円のレーダーに点滅する点が現れた。
レイカ:あったー。でも、ちゃんと生きてるじゃない。
..白樺林の中をレーダーの示す方向へ歩きだす。五分も行くと思わぬ光景が眼前に展開した。湖と呼ぶほど大きくはないが、池というには大き過ぎる広々とした水面が岸に小さな波を打ち寄せている。水面をわたってくる風が心地よく光りの粒が踊っている。思わず見とれてしまった。足元の波打ち際近くには、小魚が群れている。ここまで徒歩できた疲労もあって、レイカは浜に座り込んでしまった。陽は暖かく、そのままここで昼寝をしたい気分だ。
レイカ:思わぬ穴場を見つけちゃった。
..来年に定点が稼動開始するが、ここは中継の補助定点だからわざわざやってくるものはまずいない。疲れたり、一人になりたい時はここへ来ようとレイカは微笑む。元気の出たレイカは、定点へ向かった。レーダーの指示した場所は、寺と呼ぶには余りにも小さく、方丈の庵よりは少し大きい建物があり、柴垣で囲われていた。入り口には「たちいるべからず 勘定奉行代官所」の立て札が立っている。レイカは中へ入った。一応庭の作りなのだろう、小さな池のまわりには、大きな石が配置され、山から引かれた樋が滝となって爽やかに水音をたてている。が、荒れ放題、雑草伸び放題で廃屋そのものだ。裏手に小さな板塀の土蔵がある。そこが電波の発信源だ。ここまで近づけば中に入らなくても機能チェックはできる。手元のモニターを見ながら、10項目ほどチェックした。すべてOKで異常はない。つまり1701年には転送装置は正常でなんら問題はなく、異常はそれ以降に起きたことになる。「西暦1000年に行かなくて正解だった…」レイカはfuu--と息を吐いた。とりあえず一仕事終えた安堵感に包まれた。
..元の方向へ引き返しながら辺りを観察すると、岸近くの湿地帯には、座禅草や水芭蕉が群生している。遠く近く鶯や郭公の声が響く。
レイカ:ほんとに、なんていい所…。
..レイカはすっかり気に入ってしまった。そして、街道の合流点に戻った時ばったり人と出くわした。これには、かなり驚いた。向こうも驚いたようで、目を見開いてレイカを見つめた。毛皮の胴丸に鉄砲を担ぎ、腰には鉈が下がっている。猟師らしい。瞬時互いに見詰め合った。
オトコ:おお、びつくらついた。ねさま、どこのかたやな?
..男がかなりきつい訛りで言った。レイカの耳のゲンヘンが即反応して頭に骨伝導して聞こえる《ああ、びっくりした。お姉様、どちら様ですか?》髭面の猟師は見た目は怖いが、朴訥で人がよさそうだ。
..レイカは手ぬぐいで口元を覆う。
レイカ:旅の者です。いい所ですね。ここは何と言う所でしょうか?
..レイカの胸元の薄膜発声器から、現地語に変換された言葉が男に語りかける。
オトコ:ここいらはな、「ぐじょうげ」って言うんやさ。《ここの一帯は、グジョウゲと言いますよ》
..グジョウゲ?…レイカはちょっと頭をひねったが、すぐに「ああ」と納得した。データチェックの時、こんな山中についての資料はほとんどなかった。ただ地図に「郡上界」と記されていた。それの現地読みが「ぐじょうげ」なのだ。ここは、南北の分水嶺にあたる。二つの郡の真上の境界なのでそう呼ばれているのだと了解した。猟師は、
オトコ:《若い女の一人旅じゃ、なにかと危険だ。気をつけて》
..と言い、レイカは寺から寺へ渡っていくので大丈夫だと答えた。そして、
オトコ:あんばよう、ためらってな。《うまくいくよう、気をつけて》
..と去りかけた男の体が、向き直った。
オトコ:赤穂藩のお殿様が、江戸城の中で誰かをあやめたって話し、聞いてござらんかな?ほんとけな?
..1701年(元禄14年)3月江戸城本丸御殿の松之大廊下で、赤穂藩主浅野長矩が高家筆頭吉良義央に刃傷におよぶという事件があった。どうやら一月ほど経ってここらへも噂が伝播してきたらしい。旅の者ならいろいろ詳しい事を知っているのではと期待しているようだ。
レイカ:そういう事件があったのは、ほんとうです。江戸では大変な騒ぎになっていると聞きました。けど、わたしもそれ以上のことは知りません。
オトコ:そーかな。えらいこちゃな。足を止めてまってうたてーこって。《そうですか。大変なことですね。足をお止めしてしまって申し訳ないことです。》
..なぜか、猟師はレイカに向かって合掌して、山道に消えていった。レイカはもう一度浜へ戻りしばらく景色を堪能していたが、やがて帰路に着いた。帰りは下りだから気が楽だ。町には、往路より30分早く着く事ができた。別棟の旅人宿に戻ると、足が痛んだ。さすがに草鞋履きの山登りはこたえた。が、おもわぬ発見に心は浮き立っている。
..転送センターに戻ったのは、入った時と同時刻だ。転送先から戻るときは、「出発時に戻る事を原則とする」という規則がある。だから、さっきレイカがこの部屋へ入るのを見かけた者には、数秒で出てきたように見える。6時間の、ちょっとした冒険をしてきたとは思わない。だが、数秒でレイカの表情は別人のように変わっている。研究室に戻ると、ソファーにくずれ落ちた。
レイカ:つかれたー!
..横になったまま、メイドロボットが運んできた飲み物をとる。15分もぼーっとしていた。が、その間にもいろいろな事が心に湧いてくる。景色がすばらしかった事、転送装置に異常はなかった事、これから異常個所をどうやって見つけるか、それにコイトの報告の続きも早く知って次の手をうたなければ…、そうそうマニホの「男狩り」に付き合う約束だった…いつしか、レイカはそのまま寝入ってしまった。
..「Rena,Rena]と呼ばれ、体を揺さぶられ続けてようやく目を開けた。マニホ(麻里)が覆いかぶさるように覗きこんでいる。間近に見る顔は、ばっちりメイクしている。レイカは驚いて目覚めた。
レイカ:あー、眠ってしまった…なん時?
..4時半だった。レイカは、うーんと伸びをした。
マニホ:さ、行くよ。
..マニホは、気合が入っている。この機関に勤務時間の規則はない。仕事の仕方は、それぞれ自分で決めることになっている。だからいつ帰ってもいいのだが、
レイカ:まだ、少しはやくない?
..レイカは、もう少し寝ていたかった。が、結局マニホに腕をひっぱられ起きることになった。立ち上がると足にずきんときた。
レイカ:痛たた…
マニホ:どうしたの?
..レイカは、山登りしてきた事を手短に話した。
マニホ:だいじょうぶ?じゃ、また今度にする?
..レイカは部屋の中を歩いてみた。そして、
レイカ:ううん、だいじょうぶよ。行こう。
..レイカの足は腫れていた。が、また今度となると余計に面倒だ。ちょっと無理をしてでも今日済ませてしまおうと考えた。1階のフロントを抜ける時「マイカーお願い」と言うと、小型の綺麗な色の車がやって来た。レイカの車だ。乗り込むと行き先の「Σ(シグマ)」を告げる。自動運転で、全ておまかせだ。フロントから外へ走り出す。レイカは車をμ(ミュー)と名づけていた。
レイカ:ね、ミュー、今日Σ(シグマ)で30代の男に出会う確率は?
ミユー:時間平均デ20%デス。
マニホ:やったー!結構高いじゃない!ね、ね、最も高い時間帯はいつ?
..マニホは乗り出したが、μは答えない。レイカでないと反応しないのだ。レイカが同じ問をする。
ミユー:18−19時デス。確率60%デス。peakハ18時45分デ、75%デス。
レイカ:ほらね、やっぱりまだ早いでしょ。
..マニホは聞いていない。勝手に大声で歌い出した。
マニホ:Come on,Come on. Go,Go,Go ♪
..一人の女の野望ともう一人の疲労を乗せたμは、上空100メートルに設定された、目に見えない自動車道を疾走していった。


..







「美しき尼僧伝説(2)」へ続く





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(^^)0^) 言いましよう!





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