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オペレーション”トシシュン”(1)

 
...................................................- Rena エピソードU -
 

星空 いき

Hosizora Iki

















..




..渋谷道玄坂をしばらく登って右の小路を入ると、喧騒も遠のく。小さなテナントビルのワンフロアーに小料理「なでしこ」の看板が出ているが、実質は単なる居酒屋だ。たいして広くもない店内の客は、松井和也(マツイカズヤ)と神鳥剛(カンドリタケシ)の二人だけだ。
タケシ :ま、こんなもんさ。競馬で稼ごうって方が間違ってるよ。
カズヤ:そりゃ、ま、そうだ。
..言い訳がましく一言づつ吐いてビールで乾杯し、一杯目を息もつかず飲み干す。今日の土曜の午後、ウィンズ渋谷(場外馬券投票所)で落ち合う約束をして9・10・11の3レースに賭けてきたところだ。二人のどちらかがそれなりに勝っていれば、最終12レースまで続けただろうが、3レースとも「カスリもしない」状態だった。11レースの結果がでたところでタケシが、「今日は、見放されてるな。ここまでにしとこうぜ」と持ちかけ、松井も同調した。
..「お馬さんに人参あげてきたのね?」
..ママが突き出しの小鉢を置き、ついでにビールの酌をしながら笑う。
カズヤ:そうさ。動物愛護の精神で、必死に走ってるお馬ちゃんたちにほどこしをしてやったよ。
..二人は、同じ会社に勤めている。入社してから知り合ったのだが、部署が違っても仕事で口をきく事が多く、いつとは知れず退社後もつるむようになった。神鳥剛が32歳、松井和也が30歳でともに独身だ。タケシが競馬に関心があり、土日にはよく競馬場に通っていることをカズヤが知ったのは、3年ほど前だ。カズヤは興味もないし、馬券買いに付き合った事もなかったが、去年の暮れに女子社員まで「有馬記念」と口に出しているのを知ると、さすがに「どんな物かな?」と関心が湧いた。そして、初めてタケシの競馬場行きに同行した。 競馬場はごったがえしていた。競馬場のあきれるほどの広さと、異常な熱気に圧倒された。パドックなど近づくことさえできないし、なにより予想外だったのは若い女性が多い事だ。カズヤの持っていたイメージとは色んな意味で大きく違っていた。
タケシ :初めてだから「枠連」がいいぞ。
..タケシに馬券の買い方(マークシート)を習い、モニターを見て、
タケシ :適当によさそうな馬の枠番を選んで。
..言われて、訳も判らずシートを塗った。<なんか、センター試験みたいだな>
..そしてレース終了後、「きみは何を買ったんだ?」タケシに訊かれ馬券を見せた。タケシの目が大きくなった。
タケシ :え!
..一応観戦していたのだが、カズヤは自分の買った馬がどうなっているのかさっぱり判らなかった。
タケシ :当たっているぞ!
..カズヤが買ったのは、「2−7」1000円の1本。
タケシ :まいったなー、フロックだ!ビギナーズラックて、本当にあるんだなー。…こっちには当たり券は1枚もないぞ。
..タケシは10枚ほどの馬券を点検している。彼の購入馬券が多いのには訳がある事を後にカズヤは知った。週末になるとタケシの机に寄って来る男が増える。みな小声で馬券を依頼しているのだ。タケシが殆どの土曜に競馬場やウインズに出向くのは自分の趣味ではない。オッズと見比べ実際にどれだけの馬券を買うか、必死に計算しているのだ。いわゆる「ノミ屋」だ。この後、タケシと何度か同行するうちにカズヤはそれに気づいた。それが、タケシの小遣い稼ぎなのだ。
..配当は25000円ほどだった。現金を手にすると初めて実感が湧いた。冬の夕日が落ちる中山競馬場からの帰途、「おけら街道」でまず祝杯をあげ、続いて新橋のバーヘ行った。ささやかながら、勝利者の気分に浸れた。それが3年前のカズヤの競馬デビューだった。
タケシ :さっきのメモ持っているか?
..1本のビールはすぐに空になり、日本酒に変えたところだった。
カズヤ:ああ、あるよ。
..カズヤがポケットを探り紙片を取り出す。テーブルに置いた紙片を二人はじっと見つめる。しばらく無言だ。
タケシ :うーーん…
..タケシが唸った。
カズヤ:しかしなー…やっぱ、単なる偶然だよな…
タケシ :うん…ほかに表現のしようがない…
..さっきウインズで11レースの検討をしていたカズヤは、近づいて来た男に声を掛けられた。
? :次のレースが、本日最も荒れます。よかったらこれを買ってみてください。
..薄手のスプリングコートの男は、いきなりそう言うと紙片を差し出した。自己紹介も相手の確認もない。まるで当然の事務連絡をするような落ち着いた口調だ。カズヤは紙片をつかんだ。

.....中山 11レース 3連単 7−11−3

..<なんじゃ、これ?>思わず見入ってしまった。10秒もそうしていただろうか。頭を上げたときには男の姿はなかった。そのメモをカズヤは計算に忙しいタケシに見せた。
タケシ :ない。ない。そんなのありえん。

..と、全く取り合わない。それでもカズヤはオッズを確かめた。

.....12438.8
なんと「12400倍」つまり、100円が百二十四万円になる。信じる信じないよりも、むしろあきれるだけだ。<「鼻白む」って、こんな時に使うのかな?>当然二人とも買わなかった。が、奇跡というか、事故が起きたのだ。ゲートが開き馬が飛び出してすぐに、2番人気が落馬した。アナウンサーが興奮して絶叫し、観客の怒声・叫び声でスタンドが揺れたかと思われた。そして空の馬だけが軽やかに走り去った。馬は半周した所で走るのを止めた。騎手はうずくまったままだ。審議となったが、結局だれの目にも明らかな着順で確定した。大きな波のようなどよめきがいつまでもうねった。
タケシ :しかしなー…
..タケシは紙片を爪で弾く。
タケシ :信じて買ってれば、百二十四万か…
..また、爪が弾く。
カズヤ:でも、無理だって、これを買えっていわれても。
タケシ :どんな奴だった?闇の予想屋か?でも、金は払ってないんだよな。
カズヤ:払ってない。予想屋には見えなかった。30代半ばの真面目なサラリーマンって感じ…意図が判らないよな。なんでわざわざ教えたのか。
タケシ :そうだよな。これに自信があるのなら自分で買えばいいんだし、それに教えない方がいいに決まってるもんな。
カズヤ:いたずらかなー。ハズれるのを見て楽しむとか。
タケシ :そんな奴、いねえだろ。
カズヤ:いねーな。真面目そうでそんなタイプに見えなかったしな。
タケシ :カズ、数学強かったよな。12頭出走で「3連単」の組み合わせは、何通りになる?
カズヤ:強いってこともないけど…
..カズヤの目が天井を撫で回す。
カズヤ:12×11×10だから…
..スマホを取り出し計算した。
カズヤ:1320通り。
タケシ :全部を100円買うと…
カズヤ:132000円
タケシ :じゃ、全部買ってれば100万は間違いなく儲かるってことか?
カズヤ:今回に限っての結果論だけどな。
..いいながらスマホをいじっている。
カズヤ:それの投票順位は、1257位だってさ。つまり誰も期待していなかったということ。
タケシ :だから配当が大きくなった…だから全部買っても赤字になるどころか、100万転がりこむ。
カズヤ:あの男自分では買ってんのかなー?
タケシ :この1点買いで1000円投資してれば千二百万円だぜ!わーお!
ママ :はい、これサービスよ。コンニャクの唐辛子炒め。昼の残りだけど。
..ママは小鉢を二人の間に置くと椅子に掛けた。
ママ :ずいぶん景気のいい話しのようね。まさか、大当たりしたの?
..カズヤは紙片を指して、ママに説明した。
ママ :へー、ほんとに当たってるの?
..カズヤは頷く。
カズヤ:なんで教えたんだろう?見ず知らずのぼくに。
..ママの頭が左へ15度傾いた。目は遠くを見つめている。
ママ :そりゃ、あなたに当たってほしかったんじゃないの?
カズヤ:なぜ?
タケシ :幸運と縁がなさそうな顔をしてるからだろ。気の毒に思ったんだ。
カズヤ:ひでー!
..ママが手を打った。
ママ :きっと神様の使いよ。あなたは神様に選ばれた。そして使者が来たのよ。それ以外のことは考えてもムダ。神様の考えたことだもの、人間にはわからないわ。
カズヤ:でも…でもさ…僕はそれをムダにしてしまった。
タケシ :よくよくツキの無い男だなー。「買う」「買わない」の二者択一で負けたんだから。
ママ :そんなに決め付けちゃ、かわいそうよ。「禍福は糾える縄の如し」ていうじゃない。その分良いことがあるわよ。きっと神さまがバランスをとってくれるわ。最近なにか良い事なかった?
..言われてカズヤは考える。そして自分では気づかなかったが、顔が緩んだらしい。実は「あった」のだ。
ママ :あら、図星?
タケシ :なんだよ?なんかニヤけてるぞ。
..木曜日の晩、婚活パーティというか合コンに参加した。ただしピンチヒッターだった。参加予定だった友人が都合が悪くなり「人数が揃わない」と急遽頼まれたのだ。カズヤはそうした会合が好きではない。というより苦手だ。滑舌がいいほうではない上に初対面の女性とコミニュケーションを取れといわれても、なにをどうしたらいいのか、さっぱりお手上げだ。だから必死で断った。が、相手にも事情があるのだろう、拝み倒され、負けた。そして本番を不器用に、それでもなんとか努力してやり過ごした。終わって外に出ると三々五々散っていくなかで声をかけられた。「アドレス交換しません?」
ママ :まあ、それで!?
..ママとタケシは聞き入っていた。特にママは、瞳が何倍も大きくなった。
..カズヤに声をかけた女性、サオリも合コン参加者だ。女性陣は一言で括れば「人並み」だった。際立った美人もいなければ、目立って劣る者もいない。それに、カズヤは<オレは代打だ>という気分を引き摺っているから、積極的に出る気もない。そんな中で、時間の経過とともに男子の評価が上がったのがサオリだった。ほんわかと優しい雰囲気が好感を持たれた。この晩女子一番人気といえるだろう。だから、カズヤはちょっと面食らったが、アルコールが入っているうえ、周囲は店の明かりだけの薄闇だ。照れることはなかった。快諾し、スマホを向けてアドレスを送る。そして昨日金曜日の昼休み時間、初メールが届いた。ごく簡単な自己紹介と「合コンではゆっくり話せなく残念だった」などが書いてある。そして「魔術の科学」展に触れていた。それは、いま国立科学博物館で開かれている催しだ。「中世の不思議を科学的に解明する」展示や、いろいろな実験の実演もあり、お笑いタレントも出演している。カズヤは行ってみようかなと興味を持っている。合コンのとき話題に困ってそれを口走った記憶がある。サオリはそれを聞いていたのだろう。メールでどうやらサオリも関心があるらしいと判った。
ママ :それで、それで!
..ママは、半身のり出している。カズヤの顔に息がかかる。<どうして女は、色恋の話になると燃えるんだ?>昨日の夜のメールのやりとりで、明日の日曜日に博物館で待ち合わせることになった。サオリは今日の土曜を希望したが、タケシと約束してあった。それで明日になった。
ママ :へー、良かったじゃない。どんなコ(娘)?写真は?
カズヤ:写真はないよ。
ママ :じゃ、明日は撮ってきてよ!
..カズヤがなんと返事をしたものか迷っていると、
タケシ :それでか?
..呟いた。
カズヤ:ん?何が?
タケシ :今日のカズは、いつになくレースに熱が入っていると思ったんだ。デート費用を稼ごうとしてたのか?
カズヤ:んー、そんな訳でもないけど…まあ、な。
タケシ :話しは戻るけど、さっきの男さ。また会ったらどうする?また教えられたら、今度は買うか?仮に絶対来そうにない大穴だとして。
..カズヤは大きく息を吸うとまた天井を睨んだ。
タケシ :ママならどうする?そうだな、予算は五千円。ただし、絶対に来そうに無い馬券だぜ。
..ママもまた天井を睨んだ。
ママ :そーね。わたしお馬ちゃんのことわからないから…でも、さっきの話し、やっぱり神さまが教えてくれたんだと思う。だから、買う。五千円ぜんぶ!
タケシ :カズは?
カズヤ:うー、その場にならないと判らないな。しめきりギリギリまで迷うと思う。で、タケはどうなんだよ?
タケシ :…買わないだろうな。
カズヤ:三人三様だな。ま、人は迷って生きていくってこったな。
..そこへ賑やかに3人組が入って来た。ママは「いらっしゃい!」と立っていった。


..次の日から一週間、カズヤにしては忙しく過ごした。日曜日は約束どおりサオリと博物館へ行った。会うまではさすがに少し緊張していた。素面(しらふ)のうえ白日の下(もと)だ。ごまかしが利かない。自分でも顔がぎこちなく引き攣っている気がして、待っている間何回か頬を叩いた。
..イベントは思っていたより楽しかった。その間に互いに口数も増え一通り見終えて外に出た頃には、すっかりうち解けていた。ついでにパンダを見ようと動物園にも入った。
サオリ :わたし、東京へ来て7年目だけど、パンダ見るの初めて。
カズヤ:ぼくも生(なま)で見るの、初めてだ。大人一人では動物園て気にならないもんなー。
サオリ :とくに男子はね。
..パンダはぶら下がったタイヤにじゃれている。
サオリ :思ったより大きいのね。
カズヤ:あれ「着ぐるみ」じゃないだろうな。
サオリ :まさか。
カズヤ:悪口言うと怒ったりして。
..サオリは吹き出した。それから園内をざっとひと回りした頃には、陽が傾いてきた。駅近くで「本場直送!札幌ラーメン」の看板に引かれて入った。テーブルに付くと初めてちゃんと向かい合う形になる。カズヤは奮発して「毛蟹ラーメン」を頼んだ。ふつうサイズより大きい丼から蟹の紅い脚がはみだしている。
サオリ :わー!こんなに食べられるかしら?!
..見た目には、確かにたいしたボリュウムだ。蟹をどうしたものかと持ち上げてみると殻は剥いてあった。せっせと口に運びながら色んな話しをした。カズヤは、合コンはピンチヒッターだったことを告白した。サオリは隣の千葉・柏の出身で25歳、就職で東京に来た事、郷里に両親がいるが体調がすぐれない事、兄弟姉妹はいない事など、この日のうちにカズヤは知った。
サオリ :もう限界。
..サオリは少し残してギブアップした。駅へ向かい、また連絡することを約束しあって改札で別れた。
..その後土曜日まで、仕事以外はサオリのメールに付き合うか、もう一つの関心事に費やされた。<ウインズの男は、エヴァンゲリオン(福音)をもたらす使徒なのか?それとも…なにかとんでもない悪意を抱いているのか>繰り返し煩悶する問いの中で、日に日に気持ちは「使徒」へ傾いていく。が、かりに「使徒」であったにしろもう一度カズヤの前に姿を現すとは限らない。
..カズヤも結婚の事を考えないわけではない。両親もうるさいし、自分でもできることならしたいと思っている。その時賃貸マンションに入ったり、できれば車もあればいいと考えると自分の給料だけでは厳しい気がする。多少の貯金はあるが、結婚すれば2年くらいで取り崩してしまうだろう。ベッドに転がったまま溜息をつく。<もし、「あの馬券」を買っていたら…>と、つい思ってしまう。一気に明るい未来への道が開いたのだ。みすみす掌に止まった青い鳥を逃したのだ。生涯二度とないチャンスをしくじったのだ。また、<いや、一千万円も突然手にしたら、今頃おかしくなっているかもしれない>とも思う。今度の週末への期待が膨らんでいく。<使徒の再来を祈るしかないな>
..そんなある晩、自室で動画を見ているとドアが開く音がした。振り向くと妹カナメが頭だけ出している。なんだか顔が笑っている。高校生のカナメは剽軽者でいつも笑っている。「明るい」性格には違いないが、正しく言えば「能天気」だとカズヤは思っている。<「脳天気」の方が、コイツにあってる>
カナメ :おに〜ぃちゃん
..と掛けた言葉に、故意に意味深な匂いを漂わせている。
カズヤ:なんだよー。ノックしろよな。
カナメ :ね!ね!たいへんだよ〜。
カズヤ:なにが?
..入ってきたカナメは、重大な秘密を打ち明ける表情になった。
カナメ :お父さんお母さんがヒソヒソ相談してる。なんでもキョーサイの会のパーティに行くんだって、お兄ちゃんの結婚相手を捜しに。
カズヤ:なんだ?それ。
カナメ :だから、結婚しない子どもを持っている親達が集まってパーティするみたいよ。そこで、親同士が相談して子どもをくっつけちゃおうって事じゃない?
..少し話しが見えてきた。
カナメ :でもさ、キョーサイって「恐ろしい妻」だよね?このままだと、お兄ちゃん、恐妻とくっつけられちゃうよ。
..カズヤの父は国家公務員だ。当然共済会に加入している。カズヤは、事態を漠然と理解した。
カズヤ:共済会てのは、公務員の年金なんかの福利厚生を扱う団体のことだ。「恐ろしい妻」じゃねえ。
カナメ :そーなの?ああ、よかった。心配しちゃったよ。そんなカタイとこで、お見合いの「客引き」みたいなことまでやんの?
..カナメにかかっては、国家公務員共済会も歓楽街のポン引き扱いだ。日々の会話で(主に母からの伝聞だが)、共済会の業務内容が保険から保養所、旅行業など実に多岐に亘っていることはカズヤも知っている。母はときどき旅行パンフレットなど見ながら「いいわねー、行こうかなー」と目を輝かせている。その業務のひとつに「子女の結婚相談」があるのだろうとカズヤは思った。
タケシ :そか。で、そのパーティはいつなんだ?
カナメ :来月末の日曜日みたい。
タケシ :お父さんたち、行くって決めたのか?
カナメ :ううん。お母さんは「これ、いいわよ!」ってすごい乗り気だけど、お父さんは「そうだなー」て言っただけ。だけど、このままだといつもどおりお母さんが押し通しそうよ。わたし、様子見てくる。
..カナメは、偵察に行った。カズヤは溜息をつく。<やれやれ、当分うるさい事になりそうだなー>すぐにカナメは戻って来た。
カナメ :たいへん!お母さん、申し込み書いている。
カズヤ:え!
..さすがにカズヤも面食らった。<まさか、子女同伴ってことないだろうな!>疑問が大きく湧き上がった。だが、すぐに否定の声が囁いた。<それなら、オレに「相談なし」て事はないだろう>カナメはカズヤを見つめている。
カナメ :お兄ちゃん、彼女とかいないのー?
カズヤ:<うー>
カナメ :いれば、こんな面倒ないのにさー。
カズヤ:おまえ、やけに熱心だな。
..質問しようと思って訊いたわけではない。とりあえず何か言おうとしただけだ。
カナメ :だってー、当然じゃない。きっとお兄ちゃんのお嫁さんは、わたしを子分のように見下すのよ。そういう権利があるみたいに。こっちにだって言い分はあるよ。
..突然の小さな反撃にカズヤは妹を見つめた。
カナメ :まず、わたしより美人はだめ。美人に見下されたら、救いが無い。
..カズヤは笑い出すところだった。
カズヤ:おまえ、けっこう学校の男子に人気があるって聞いたぞ。
..それは、本当だった。カズヤの目から見たカナメは美人の定義からはちょっとずれてるが、けっこうかわいいタイプだ。中高の間に告白レターまがいの物を何度か受け取っている。
カナメ :だから容貌は、わたしが「勝ってる」て思えるレベル。これは必須条件。それから根性の悪いヤツもダメ!いつも主導権を取ろうとするヤツもダメ、それから…
カズヤ:判った、わかった。
..カズヤが止めにはいる。
カズヤ:実はな…
..こうなったら、カナメだけには話しておいた方がいいかも知れない。
カズヤ:つき合っているコ(娘)が、いるにはいるんだ。
..カナメの目が5倍くらい開いた。
カナメ :!、ウッソー!…会社の人?
カズヤ:いや。最近合コンで知り合ったばかりだ。
カナメ :…合コン…大人の雰囲気ねー。写真あるんでしょ、見せて!
..カズヤは躊躇する。写真はあるにはある。動物園で撮ったものだ。
カズヤ:ない。まだ、そこまでつき合ってない。
..「カナちゃーん、早くお風呂を済ませて」階下から母が呼んだ。カナメは立ち上がる。
カナメ :撮ったら、一番に見せてよ。ぜったいだよ。
..言い残し出て行くカナメの背中に警告する。
カズヤ:いいか。今の話し、まだ誰にも言っちゃイカンぞ!当分内緒だ!
..そして金曜日の夕方までに、土曜はサオリと映画、日曜はタケシと中山競馬場に決まった。「弥生賞」開催日なのでタケシが本馬場を希望した。タケシのノミ屋の注文も重賞レースに偏る。きっと多く集まったのだろう。別の意味でタケシにも勝負時なのだ。そして、カズヤとしては、祈りたい気持ちだ。<どうか、使徒が顕れますように>
..夕食後に部屋のベッドに衣類を並べて考えていると、カナメがやって来た。
カナメ :なにしてんの?
カズヤ:…んー、明日なに着ていこうかと思って…
カナメ :もしかして、デート?!
カズヤ:まあな。
..カナメのテンションは一気にあがった。衣類ケースから次々に引っ張り出し、結局部屋中床が見えないほど散らかった。「それもダメ」「これもダメ」…ダメだしの連続だ。
カナメ :あー、ダメだー!みんな古いのよ。いまっぽくない!新調しなよ。ユニクロなら安くていいのがあるよ。
..確かに、最後に衣類を新調したのがいつだったか記憶にないくらいだ。Tシャツでさえ3年前に購入したのが最後だ。言われても仕方ないだろう。
カズヤ:ところでさー、お母さん、例の申し込みしたのか?
カナメ :いまんとこ迷ってるみたい。けど、お母さんのことだからきっと近いうちに出すよ。ね、いっそ彼女がいるって言ちゃえば…
カズヤ:まだ、彼女といえるほどの関係じゃないしな…
カナメ :パーティの参加費だってもったいないじゃん。一人一万円だよ。
カズヤ:ま、そうだけど…、ところでさ、願掛けしたことあるか?
カナメ :あるよ。小遣いUPとか、試験のヤマがあたりますようにとか。ああ、そうか。恋の成就ね。それならまかせて!
..「朝一番、レモン汁を3滴コップの水に落とし、結ばれますようにと祈って7回に分けて飲み干す」「寝る前に、左手の人指しゆびで、右の掌に彼女の名前を書く。左の掌には自分の名前を書く。トランプのハートのAを両手ではさみ祈ってから、枕の下にして眠ると次の日恋が成就する」…
カナメ :それから…
カズヤ:待った!
..黙っていれば、いつまでも続きそうだ。<女子高生に訊いたオレが間違った>が、ギャンブルの願掛けだとは言えない。
カナメ :だからさー
..と、カナメの表情がヤリ手婆のように変わる。
カナメ :深い付き合いだという関係になっちゃえば!
..カズヤが殴る真似をして、カナメが飛び退く。カナメは、後ずさりしながら両掌で阻止する格好で言った。
カナメ :けど、もしわたしより美人なら、そういう関係になっちゃダメだよ!わたしほど美人じゃない時だけ許す。
..さすがにカズヤは大爆笑してしまった。
カズヤ:大丈夫さ。この世にお前より美人なんていないから。 <妹にまでお世辞が言えるなんて、オレも大人になったな〜>
..土曜日。予定どおりサオリと映画に行き、近くの公園を歩いた。陽が傾いたころには、手をつないでいた。歩いていると池のほとりへ出る。周囲は木立ちに覆われかなり暗い。カズヤの手はサオリの腰を抱いていた。大木の陰で立ち止まると、抱き寄せる形になった。初めて軽く唇を合わせた。カズヤは一度少し顔を離し、腕に力を増して本格的に抱きしめようとした。その時、
サオリ :え?
..サオリの口から息が漏れた。そして上体を離した。
サオリ :これ、なーに?
..サオリの指は小さな紙片を摘んでいる。
カズヤ:なんだ?
サオリ :あなたの背中についてたの。
..カズヤはそれを取ると小さな文字を読もうとしたが、なんといっても暗い。池の反対側に小さなレストランの明かりが見える。
カズヤ:あそこで、食事にしよう。
..と周遊道を廻った。「森のレストラン」のテーブルでビールとハンバーグを頼んで、紙片を紅いキャンドルの下に置いた。テープで止めてあったようだ。互いの顔がくっつくように覗き込む。鉛筆書きのメモだ。
サオリ :これ、なんでしょう?まるで暗号みたい。

.......3/9 N 11R
.......10−11−3

..カズヤはいきなり心臓を掴まれたと思った。<来た!! 使徒だ!>鼓動が一気に早くなった。カズヤは、当日会場で捜さなければと思い込んでいたのだ。混雑の中で見つけられるか、不安だった。思いもかけないやり方で不意打ちを食らった。
カズヤ:…!
..口がきけないが、すぐに分かった。「3月9日 中山 11レース(弥生賞) 3連単 10−11−3」だ。
カズヤ:き、き、金庫のダイアル番号みたいだな。映画館でくっ付いたのかな?それともイタズラかな?
..できるだけ冷静に言ったつもりだが、呼吸が乱れているのが自分でも判った。<落ち着け。落ち着くんだカズヤ>紙片をポケットにしまうと、話題を変えようとネタを捜す。
カズヤ:ぼ、ぼくの妹がね…高2なんだけど…生意気なヤツで…ぼくのファッションが古くてダサイって言うんだ。
..サオリの目が笑う。カズヤも少し落ち着いてきた。
カズヤ:で、ね、よかったら今度洋服選びをしてもらえないかな。自分になにが似合うのか全然分かんないんだ。
サオリ :いいわ。けど、わたしも男性物は自信ない。
カズヤ:いいよ。キミが見ていいって思えばそれで。それに…
..言いかけてつまった。<余計な事いっちまった!>
サオリ :それに?
カズヤ:来週中に…ちょとした臨時収入があるんだ。<ああ、言っちまった!バカヤロ!>だから…<こうなったら、毒食わば皿までだ>キミの服もプレゼントするよ。<そこまで言うか!>
..言葉の暴走は、もはやカズヤの意志を振り切っていた。ブレーキがみつからない。慌ててビールを飲み干す。
サオリ :どうかしたの?なんかあせってるみたいだけど?
..サオリは笑っている。
カズヤ:いや、その…女性にちゃんとプレゼントしたことないから、舞い上がっちゃって
..サオリは今度は声に出して笑った。
サオリ :わたしだって男性からきちんとしたプレゼントをもらったこと無いわ。でも、無理しないでね。
..そこへハンバーグが来た。ようやくカズヤも落ち着いた。
サオリ :妹さん、2年生なの?
..口が一杯なのでカズヤは、こっくりと頷いた。
サオリ :じゃ、わたしより妹さんに何かプレゼントあげたほうがいいわ。色んな物がほしい年頃だから。
カズヤ:うーーん
..<そっか…カナメにプレゼントなんて思いもしなかったなー>正月に「お年玉だよ」と五千円くらいはあげている。が、それ以外になにかしてやった記憶がない。<言われれば、そうかもしれない。オレだって一応兄貴だもんな>
..食事を終えて外へ出ると、黒い木立の向こうに東京タワーが輝いて聳えている。
サオリ :きれいね。
..サオリは感心してしばらく見惚れた。サオリは地下鉄、カズヤはJRだ。
カズヤ:送っていくよ。
..地下鉄で切符を買おうとすると、
サオリ :ここでいいわ。地下鉄に乗れば後は安心だから。
..と止めた。少しの間お互いに離れ難い気持ちで辺りをうろついたが、
サオリ :今日はありがとう。楽しかったわ。またね。メールする。
..顔の前で両の手をひらひら振って、階段を下りていった。
..カズヤは再び公園に戻って通り抜けるとJRの駅に向かった。明るい通りに出た時、ポケットから紙片を取り出し確認するように見つめた。<夢じゃない。確かにある>また、鼓動が早くなったのが判る。なんだか少し息苦しくなってきた。カズヤのヤカンが湯気を噴き鳴り始めた。「このまま放っておくと沸騰するぞ!」警告が聞こえる。立ち止まると、目をつむって大きく深呼吸する。<落ち着け。まだ当たったと決まった訳じゃない>傍らを通り抜ける人が不審な物を見る険しい視線を投げつける。癒しと欲望の雑踏の渦の中を一人放心したように歩く。<それなのに、あんな事口走ってしまった。当たらなかったらどうする?>真冬に焚き立ての風呂に飛び込んだ気分だ。火傷するほど暑いと思ったらその底は凍るように冷たかった。
..帰宅すると、「メシは食った」と部屋に籠もる。ベッドに転がったままメモを見つめる。<さて、どうしたものか?>自分でも、間違いなく買うことは判っている。問題は、投資額だ。<100円?…それはない。1000円?…それとも、10000円>しばらく天井を見つめタケシに電話した。
カズヤ:来たよ。
タケシ :何が?
カズヤ:エヴァンゲリオンの使徒。
タケシ :ん?
カズヤ:例の馬券の予告さ。
タケシ :…!ウソだろ!
カズヤ:メモの紙っ切れが、さっきオレの背中に貼ってあった。
タケシ :本当かよ!で、やっぱ、3連単か?!
カズヤ:ああ、弥生賞の1点だよ。10−11−3。
..うーっと電話の向こうでタケシが唸る。
タケシ :ちょっと待て。
..タケシはスマホを置いたようだ。すぐに、
タケシ :あのな、予想オッズでは、35倍だ。
カズヤ:35倍…か。
タケシ :この組み合わせなら、そんなもんだろな。10が一番人気、11が4番人気、3が2番人気だからな。11が2着だからその分倍率が高くなったんだな。
カズヤ:ちょい荒れって事か。
タケシ :「荒れ」までは行かないけど、ま、そんなとこ。比較的手堅いレースてこった。で、どうすんだ?買うのか?
カズヤ:うー、判らん。締め切りまで悩みそう。
タケシ :けどよ、どうしてカズのところにだけ、使徒か(?)、それが現れるんだ?もしかして、ほかのヤツにも来てんのかな〜?
カズヤ:判らんよ。オレのほうが聞きたい。で、タケは買うか?
タケシ :うー…明日まで考える。
..次の日の待ち合わせを約束して切った。<35倍…1000円なら3万五千円。10000円なら35万円。10万円なら350万円。……あるいは全く買わない><そうだ。「なでしこ」のママに知らせたほうが…いや、止めといた方がいいかな>天井を見つめ思い悩む。
カナメ :お兄ちゃん。
..呼ばれて現実に戻される。ドアからカナメの顔が覗いてる。
カナメ :てっきり朝帰りだと思ってたのに。まるで高校生のデートね。
..カナメはすぐに逃げられる態勢をとりながら部屋に入ってきた。カズヤは怒る気にもならない。
カズヤ:お前の誕生日っていつだっけ?
カナメ :もうじきよ。3月16日。ちなみにコウイチ叔父さんは23日よ。一週違いなの。なになに、なんかプレゼントしてくれるの?!
カズヤ:そんなんじゃ、ねーよ。お前にだって誕生日ぐらいあるんだろうなって思っただけ。
..カナメは、拳でカズヤの腹に一撃いれた。
カズヤ:Ghef!…で、なんか欲しいモンでもあるのか?
サオリ :あるある!
..エルトンのビコタンが欲しいと即座に言ったが、それがどんな物なのかカズヤには想像できない。
カズヤ:へ〜。
..生返事をすると、カナメは自分の部屋から雑誌を取ってきた。そして開いたページを指差した。
カナメ :こういうバッグよ。
..スタイルのいいモデルの腕に下がっているのは、なんの変哲もないただのバッグだ。少なくともカズヤにはそう見える。<高くても2万円くらいかな…>
カズヤ:参考までに聞くけど、いくらなんだ?
カナメ :いろいろだけど、35万円ってとこ。
カズヤ:!!!…なんて、言った?
カナメ :だから、35万。
..カズヤは写真をもう一度、今度は神経を集中して見つめる。
カズヤ:バッグだぞ。ただのバッグだぞ?!こんなの35万もだすやつの顔が見たいよ。脳のネジが何本かはずれているか、美的感覚の遺伝子を受け継がなかったヤツだ。オレなら1万でも買わんよ。
カナメ :そんなこと言ってるからダメなのよ。こっち見て。
..カナメは次のページをめくった。そこには小物が並んでいる。
サオリ :この財布、いくらだと思う。
..これも代わり映えのない財布だ。
カズヤ:3千円。
サオリ :10万よ。
..もう、カズヤは反論する気にさえならない。<いくら世の中が虚構で動いていると言ったって、人間てここまでバカなのか…>
カズヤ:付録に、モデルの美貌とスタイルが漏れなくついてくる訳じゃないよな。
..カナメに言ったつもりは無かった。勝手に口をついた独り言だ。
カナメ :もう…。
..カナメは出て行った。そして、カズヤは気づいた。<オレはサオリにとんでもない事を口走ってしまったのかも…>カズヤから見れば美的センスのないバッグでさえあの値段だ。ちょっといい洋服なら、まして婦人物なら卒倒しそうな金額になるのでは…!<ああやっぱりオレは小心者だ。勢いでとんでもない事を宣言した。さあ、どうする、カズヤ!>
..
..日曜日。西舟橋駅で待ち合わせた。そこからはバスだ。みんな手に手に競馬新聞と赤ペンを持っている。駅からバス停まで大変な混雑だ。が、バスの方も次々とやってくる。
タケシ :腹は決まったか?
カズヤ:まーな。
..会話はそれだけだった。 カズヤは、タケシがこれからが忙しい時間帯だと知っている。プロのノミ屋は決して馬券を買わない。全部のんでしまう。中途半端に馬券を買うと却って傷を大きくする。「呑む」なら全部「呑む」。その代わり、手数料を取り配当の一割頂く(折半という者もいる)。更に配当支払いの上限を決めている。だからトータルでは必ず儲かる。しかし、タケシはプロではない。顧客は社員のみ。手数料は無く、配当の一割は貰うが、危険そうな馬券はある程度買っておく。中途半端な「ノミ屋」なのだ。だから、締め切りぎりぎりまでオッズを睨んで計算に忙しい。頼まれた馬券のうちどの馬券をどの程度買っておくか、「利益」と「安全」を天秤に掛けた危険な綱渡りをしている。それに今回は重賞レースだ。かなりの口数を引き受けているらしい。せっせとメモ帳に書き込む目つきが尋常でない。押し合い圧し合いのバスの中で、カズヤはタケシの様子を見て考えた。依頼された馬券の全てが「連複」だとして、確実なノミ行為とは?本家の中央競馬会には利益が出るのだから、タケシの頼まれた票の割合がオッズと同じ、もしくは近いなら「買わないほうがいい」に決まってる。その割合がオッズより危険な方に大きく傾いていれば、「頼まれたとおりに買う」と利益はないが怪我をしなくて済む。大雑把にそうなりそうだが、集めた総票数にも大きく作用されるので、中途半端な「ノミ屋」は常に危険を孕んでいる。<普段はちまちまと小銭が入るが、どこかで大怪我をしそうだな…>そんな事を考えているうちに馬場に着いた。9レース出走の馬がパドックを回っていた。タケシは、すぐ今日の成績の確認に走る。今日の「流れ」を知るためだ。8レースまでは大きな波乱はない。大穴がでることもなく一日平穏に終わるか。それともどこかで纏めて荒れるか。中にはそれを鉛筆を転がして決めるヤツもいる。
..カズヤは今朝ATMへ行った。今日の投資をいくらにするか、かなり迷った。昨夜のカナメとの会話が事態を変えた。<仮に10000円購入して35万円当てても、バッグ1個にしかならない。さあ、どうする?3万円いくか!?>実際に機械の前に進むまでかなり時間を浪費した。<来なかったときは、3万円が一瞬でパーだぞ!>もし念のためなどと3万円所持すれば、勢いで全部投入してしまう惧れが多分にある。<オレは小心者だからな。その場の勢いに飲まれる>結局、賭けるのは「11レースの3連単1点のみ」と腹を決め2万円を用意した。そして今懐にその2万円がある。だから11レースまでカズヤには特にやる事がない。タケシの後をついて回り、オッズを仇のように睨んで計算するタケシは完全に自分の世界に閉じ篭ってしまった。まだ初めての頃、タケシがパドックに関心を持たないのを不思議に思ったものだ。観客の殆どは、それぞれ自己流の「馬の見方」を持っている。「毛艶(けづや)」がどうとか「踏み込み」がどうとか「いれ込んでいる」とか、はたまた「首が高い」「汗が多い」などなど様々だが、それでもなんとか見極めようとする。いや、見極めたいのだ。だが、タケシは馬は見ない。オッズ掲示板のみだ。その意味が判らなかったが、今は何故なのか知っている。「利益」と「安心」の綱引きにパドックなど関係ないのだ。9レースは、勝ったのは1番人気だが、断突の1番人気ではなかった。そのうえ2番人気も終盤ずるずる後退して3着。2着には5番人気がはいり配当的には「ちょい荒れ」となった。3連単は337倍だ。
..そして10レース。勝ったのはコーナーを回って一気に抜け出した13番人気だ。2着には5番人気が来て、1番人気は直線伸びず3着に終わった。単勝10620円という「大荒れ」のレースとなった。3連単は9435倍だ。場内は怒号と悲鳴さらに罵声、そして溜息が渦を巻いた。カズヤは買っていないもののやはり興奮していた。そしてタケシはと見ると、崩れるように蹲っている。観客は散っていき、いよいよ本日のメインレース「弥生賞」だ。
..パドックで一応馬の様子を観察した。が、カズヤの考えるべき事はひとつしかない。「一万か二万か」それのみだ。8レースまで平穏にきて、9レース「ちょい荒れ」10レース「大荒れ」だ。<ならば、11レースは平凡だろう>根拠など無い。どこかでそうあることを願っているのかもしれない。マークシートを塗りながら<パーになっても、2万だ。5万じゃないから…>と、自分で自分に言い訳している。考えてみれば、その言い訳はATMの前でも言った。言い訳を用意してからでないと行動に移せない。<小心者>と囁く声がある。
カズヤ:買ったよ。
..投票券をタケシに見せた。「10−11−3」の一点買いだ。オッズを確認すると5番人気だ。タケシは、10レース後すっかり元気が無くなった。心なし顔色が白い。
タケシ :ふーん。オレはどうしようかな…
..頼まれた馬券のメモを見て相当悩んでいるようだ。
タケシ :本命はかなり堅いんじゃないかな。
..しばらく沈黙の後、ぽつりと漏らした。
タケシ :今度は荒れないだろうな…
..独り言だった。そしてメモをみながらシートを塗り始めた。
..午後3時44分、快晴の中山競馬場11レース「弥生賞」のゲートは開いた。
...................実 況


..「おけら街道」のうらぶれた食堂で二人はビールで乾杯した。少なくとも今日のカズヤは「おけら」ではなかった。<使徒>の予告どおりの結果に納まったのだ。配当は3850円と、思っていたよりも高かった。収支37万円のプラスだ。長い換金の列に並び現金を手にした時は、さすがに血圧が上がったのを感じた。そんな額を手にした連中は、すぐさまタクシーに乗り込んで、錦糸町や新橋などに駆けつけ散財と相場が決まっている。が、カズヤとタケシはおとなしく「おけら街道」を歩いた。
タケシ :カズ、特券(1000円券)か?
..途中でタケシが訊いた。カズヤはせいぜい1000円の一点買いだと思い込んでいるようだ。さっき馬券を見せたのだが、それどころじゃなかったのだろう。目に入らなかったようだ。
カズヤ:いや、一万円だ。
..タケシは呼吸をわすれた。目を見開きカズヤを見つめる。
タケシ :一万、ウソだろー!
カズヤ:ほんとだよ。
..タケシ大きく口を開けぱくぱくしている。最後までカズヤは迷った。一旦は2万円で記入した。が、締め切り間際慌てて1万に変更した。
タケシ :じゃ…じゃあ、30万以上じゃないか!
..タケシはいつもより飲むピッチが上がっている。カズヤが1杯目を飲み干すまでに、タケシに3度注いだ。街道を歩いていてふと見た路地の奥に食堂の看板があった。早く落ち着いて座りたかったカズヤは、そこへ先導した。だから初めての店だし、いまのところ他に客はない。帰途タケシは何度も溜息をついていた。
タケシ :すまん!!
..突然タケシがテーブルに両手を付き頭を下げた。
カズヤ:!!…なんだよ?
タケシ :すまん。頼む。
..タケシはさらに深く頭を下げテーブルに打ち付けた。ゴンと鈍い音が響いた。 タケシは9レースまでは、まあまあの収支だった。ところが10レースでやってしまったのだ。このレースで「枠連3−5、1000円」の注文を受けていた。それを見落としてしまったのだ。「大荒れ」のレースで、それは18,860円をつけた。特券なら188,600円だ。
カズヤ:
..話を聞いても言葉にならない。
タケシ :そんな訳で、頼む。20万貸してくれ。
..<あーぁ、とうとうやっちまったか…>カズヤの大金にしたって、降って湧いた幸運がもたらしたものだ。汗水の結晶ではない。<仕方ないか>思っているとタケシが店のオヤジに、朱肉はないかと立ち上がって借りてきた。そしてすぐに、
タケシ :借用書はちゃんと書くよ。
..とメモ用紙に書き始める。
カズヤ:そんなモンいいよ。
タケシ :そういう訳にはいかない。
..ページを破り取って朱肉で拇印を押すとカズヤの前に差し出した。
カズヤ:配当の上限は決めてないのか?
..プロは上限がある。大体一万円だ。それなら、タケシの支払いも10万円で済む。
タケシ :決めてない。
..顧客といってもみんな社員だ。いうなれば、内輪の内職のようなものだ。「1割の謝礼」以外に特に約束事はないままきたのだろう。差し出してタケシはもう一度深く頭を下げた。カズヤはテーブルの下で20枚数え、揃えてタケシの前に置いた。
タケシ :ありがとう。恩にきるよ。助かったー。これで明日会社に行ける!
..その店は早々に退散し、途中で、
カズヤ:「なでしこ」へ行くか!
..カズヤはタクシーを拾った。


..日曜の夕方、カナメは友達と新宿で遊び帰った。ほぼ夕食の支度の終わった食卓では、父が水割りをちびちびやりながら何か読んでいる。あまり機嫌がよくなさそうだ。
カナメ :ね、お母さん、お兄ちゃんの「婚活パーティ」申し込んだの?
..準備を手伝いながら尋ねた。
ハハ :んー、やっぱり参加してみた方がいいんじゃないかなーって思ってるんだけどね。もう締め切りが来るし。いままでに参加した人に聞いてみたんだけど、たいていの人は参加してよかった、て。
カナメ :そう…お父さんもいっしょ?
ハハ :お父さんは、乗り気じゃないみたい。というより、面倒くさいんじゃないの。
カナメ :あのね…
..カナメはしばらく考えこんだ。
カナメ :やっぱ、言っちゃお!お兄ちゃんね、付き合ってる人がいるみたいよ。
..母の菜箸を持つ手が止まった。
ハハ :ほんとに!
..カナメはうなづく。
ハハ :ね、詳しくきかせて!お父さん、お父さん!たいへんよ。カズヤに付き合っている女性がいるんだって!
..父はちらっと母を見たが、また紙面に視線を戻した。今夜は煮魚だ。カナメはあまり得手ではない。が、高校生になってからは文句を言わないようにカナメなりに気を使ってきた。小遣いその他、なにかとおねだりしなきゃならない事態が多いから、普段は「いい子」でいるように努めている。数学の時間は休眠する脳も、そういう所は抜け目無くちゃんと回転するのだ。
ハハ :で、どんなコ(娘)?何歳?…
..食卓で、母の詰問は留まるところを知らない。会社の人?住所は?親はなにをしてる?まさか歳上じゃないよね?美人?タレントなら誰に似てる?
カナメ :もー、だから、わたしも詳しい事なんて知らないって!写真も見た事ないんだから。
ハハ :もしいるのなら、パーティの申し込み考えなきゃ、ね、お父さん?今夜カズヤに聞いてくれない?
チチ :おまえが聞けばいいだろ。
..そんな様子を見ていたカナメは<今夜はダメだな>と諦めた。昼間友達のリーダー格レイから提案があった。3年の冬休みに「卒業旅行」に行こうというのだ。アホな友連れは盛り上がった。「行こう!」「絶対だよ!」勢いで香港・ハワイなどが上がったが、女子高校生ばかりで海外はやはり不安だ。行き先は暖かい沖縄に決まった。予算はざっと5万円。だが、実際の経費は5万では済まないだろう。帰りの電車で一人になると、無風の鯉幟のようにしぼみ垂れ下がった。<7〜8万円はいるな…> そして今、この雰囲気はまずい。
ハハ :ところで、コウイチさんの手紙て、なんなの?なにか特別な事?
..コウイチというのは、父の弟だ。横浜で雑貨などの輸入会社を手広くやって羽振りがいいとカナメも聞いている。父は黙って、封書を母に渡した。その封書を郵便受けから取って母に渡したのはカナメだ。そのとき母が、
ハハ :いまどき封書の手紙なんて、めずらしいわね。
..と、差出人を確認しながら呟いた顔が、不審な物を見る表情だったのを憶えている。そそくさと食事を終えると食器を流しに運び、
カナメ :洗い物、後でするから置いといて。
..階段を駆け上がった。自室で急いでカズヤにメールする。終えると宿題だ。英語と国語のトレーニングノート。片付ける順序については、カナメなりに法則がある。まず英語はカズヤに訊く。カズヤの手に負えないときは、あした優秀な友達のノートを丸写しする。きょうカズヤは飲んで帰るだろう。当てにならない。<英語は明日転記する>と即決だ。国語は多少自信がある。現代の随筆文だからだ。これが評論の類だとすると<考えるだけムダ>、これも即決だ。評論文は解答の解説を読んでもチンプンカンプンだ。小説や随筆だけはなんとか「答え」らしい物が書ける。宿題を片付けていると電話がきた。友だちのナナミだ。
ナナミ :カナちゃーん、卒業旅行のこと、お母さんにはなした〜?
カナメ :ううん、まだ。今日はそんな雰囲気じゃないのよ。
..それから、ナナミは時々つっかえながら、時には洟をすすりながら話した。ナナミの家は電気店だ。そんなに景気がいいとは思われない。おまけに最近大きなチェーンの量販店ができて父親も苦悩しているらしい事を知っている。とても「卒業旅行」の事など言い出せない。最後は、はっきり涙声だった。
ナナミ :きっとわたし、仲間はずしでこれからシカトされるよね。…で、ね…カナちゃんもシカトしてくれてかまわないからね。わたしに無理して付き合うと、今度はカナちゃんまでイジメにあう…だから…無理しないで。わたしは、かまわないから…それだけ言いたかったの。
..電話は切れた。カナメはしばらく呆然としていた。「卒業旅行」を言い出したのは、なんとなくリーダーを張っているルイだ。彼女の父はスーパーマーケットを5店持っている。熾烈な業界で店舗を増やしてきた。かなり押しの強いタイプだ。そしてルイもよく似ている。カナメは宿題をすっかり忘れてしまった。無意識に何度も溜息をついた。<宿題はいいや>力なく立ち上がると階下へ降りた。ダイニングでは、両親が押し黙っている。カズヤはまだ帰っていないようだ。カナメはエプロンを取るとゆっくりした動作で洗い物にとりかかる。頭の中では、ナナミが泣いている。のろのろと食器を洗い終えた頃、母の声が聞こえた。
ハハ :ね?どうするの?…どうするつもり?
..声が詰問するように尖っている。父が、短くなにか言ったようだが聴きとれなかった。が、声音と雰囲気からいい話しをしているのではないと判った。


..道玄坂の「なでしこ」に着く頃には、タケシも普段の元気を回復していた。カズヤのお陰で心配のタネが消えたのと、少々アルコールが入ったせいだろう。
ママ :いらっしゃい。今日も人参あげてきたの?
カズヤ:いや、今日は餌代の取立てができた。
ママ :あらー!ほんと。よかったじゃない。じゃ、今夜はお祝いね。
..3人で乾杯する。
カズヤ:タケは、例の3連単買わなかったのか?
タケシ :10レースのショックで、「弥生賞」は殆ど思考停止だった。だけど2レース続けて「大荒れ」はないとは思ったから、特券(1000円券)一枚だけ買った。
カズヤ:頼まれた分は?
タケシ :全く買わなかった。
カズヤ:じゃ、「弥生賞」だけの収支は?
タケシ :まだ細かく計算してないけど、3万ほどプラスだ。
カズヤ:なんにしろ、ノミ屋はこわいな。
タケシ :オレも今度から上限一万にするよ。実はずっと以前にもポカしたことがあるんだ。
カズヤ:ほんとかよ。
タケシ :その時は、金額がさほどでなかったからまだ良かったけどな。それも大量に頼まれた時だった。やっぱり見落とししてしまった。注文が多い時は要注意ってこったな。どうしても平常心じゃないから、ポカをし易くなる。
カズヤ:止める気はないのか?
..タケシは、にやっとした。
タケシ :それはそうと、謎の予想屋、これで連続「当たり」だぞ?それも1点買いで。どういう事なんだ?なぜカズの所にだけ現れるんだ?
カズヤ:オレにだって判らんよ。けど、ちょっと気味が悪いよな。なんか、この後とんでもない結末が待っていないか…大金を手にさせといて、訳の判らないドンデンがえしがあるんじゃないか…って。
タケシ :うーん。確かに…な。ある日突然コワイお兄さんが現れたりして。じゃ、もしまたお告げがあったら、どうする?
カズヤ:判らん。
..カズヤのポケットで陽気なメロディが響いた。カナメからのメールだ。
........ごめん
........お母さんに彼女がいること
........言っちゃった
........帰ると、きっとうるさく聞
........かれるよ
........お母さんがパーティの申し
........込み出すって言うから、し
........かたなかったんだよ
........ごめんね
タケシ :だけど、変だよな?
カズヤ:なにが?
タケシ :カズの言う<使徒>な、当てさせて儲けさせるつもりなら「弥生賞」じゃなく、「大荒れ」の10レースを教えればいいんじゃないか?10レースの3連単なら、なんと9000倍だぜ。一万購入したら…わーお!9億だ!!
カズヤ:9億!!
タケシ :中央競馬会にも上限があるはず…たしか3億だったかな?
..いつしか酒に代え、後から来た客も消えた。その後9時を回っても客はこない。
カズヤ:ママ、今日はもう店じまいする?
ママ :そーね。日曜だからもうお客さん来ないわね。
カズヤ:じゃ、ちよっと儲かったから寿司をおごるよ。
ママ :ほんと!
..ママは喜んで看板を取り込んだ。たしかにタケシの言うとおりだ。稼がせるつもりなら10レースを教えればいいはずだ。なぜ配当の低いレースだったのか…もう、かなり酔いがまわっていた。それ以上考える気力も湧かない。
ママ :さあ、行きましょ、行きましょ!
..はしゃぐママに煽られて腰を上げた。







「オペレーション”トシシュン”(2)」へ続く





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