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オペレーション”トシシュン”(3)

 
...................................................- Rena エピソードU -
 

星空 いき

Hosizora Iki














....<本文中緑色の部分は、読み飛ばしてもスト−リーに
....影響ありません。興味のない方は飛ばしてください>




.......................................コード資料....称号と範囲


..おしゃれなカフエで向き合う二人。傍目には恋人同士の甘い時間が漂って見えることだろう。だが、カズヤの表情は堅い。向き会う女性の表情も曇りがちだ。木曜日の退社を急ぎ、新宿にやってきたカズヤはクミコと落ち合った。
カズヤ:つまり、600万円あればなんとかなる…そういうこと?
..クミコはカズヤを見つめて頷く。Uuuu--n,カズヤが軽く唸る。
カズヤ:だけど、ゆうべもサオリちゃんと話したけどそんな事言ってなかったよ。
クミコ :それは、カズヤさんに話すと本気で心配するから、わたしもカズヤさんには言わないで、て念を押されてるの。だけど、いろいろ考えているうちに、やっぱ話した方がいいんじゃないかって思えてきて…
..クミコは昨日サオリと電話した。そして、クミコの母の病気についての新情報を知ったのだ。むかし国内各地には「風土病」で片付けられる病気が多く存在した。特定の集落などにのみ発生する奇病だ。共通しているのは、感染力が弱いらしく広範囲に拡散しないらしい事だ。だから、限られた村や谷間にのみ発生し、「風土病」としてさほど真剣に取り上げられなかった。そして、サオリの母も「風土病」じゃないかと医者が言った。アメリカに非常に症状が似た例があり研究が進んでいるという。原因は、ミトコンドリアに付く特殊なウイルスで、胎内感染する。さらにサオリの母の母の出身地を辿ると、「風土病」を持つ集落に行き着く。つまり祖母から胎児に代々感染しているのではないかと思われる。それが、昨日のクミコとサオリの会話だ。そしてアメリカの医療機関に血液を送れば、検査して型にあったワクチンを製造してくれる、というのだ。ただし、もちろん保険は利かないし、どうしても高額になる。それが600万円なのだ。
クミコ :それで…このこと内緒にしておいてくださいね。だって、絶対カズヤさんには言わないで、てくどく念押しされてるから…だけど、わたしどうしたらいいのか、判らなくなって…
..カズヤの返事はない。というより、返事の仕様が判らない。永い沈黙を店内に流れる音楽が埋めていた。
カズヤ:それで、ワクチンを使えばお母さんの奇病、風土病だっけ、治るんですか?
..沈黙の重さに疲れて発言した。
クミコ :それは判りません。お医者さんが言うには、治る保障はないけど発病した時症状を抑えることはできるんじゃないかって。あ、いえ、あなたにお金を用意してくださいというつもりで話したんじゃありません。誤解なさらないでください。ただ、わたし一人で考えても持て余すだけなので、つい、お話ししてしまいました。ごめんなさい。
..聞きながら、カズヤはとにかく今夜にでもサオリに直接訊いてみようと思い始めていた。<うまく誘導すれば、クミコから聞いた事を悟られず話しを引き出せるかもしれない>
カズヤ:じゃ、…飽くまでも仮定の話しだけど、サオリちゃんにも感染の可能性がある…ということですか?
クミコ :…ないとはいえない…そういうことじゃないでしょうか…?その万が一の時のためにも、ワクチンが効果があると判れば、ずいぶん将来が明るくなります。
カズヤ:そうですね。
..その頃カナメはダイニングで母親とテレビを見ていた。テレビは点いているだけで、二人とも放映中のバラエティ番組に関心はなさそうだ。父もカズヤもまだ帰っていない。
ハハ :なんかさー、この時間帯って、いつも同じような顔が出てきて同じような番組ばっかやってない?
カナメ :製作のオジさん、オバさんじゃ無理よ。スタッフ・出演者全員が10代 なら、なんとかなるかもね。
ハハ :でもそれじゃ、オジさん、オバさんは見ないよ。
カナメ :だからチャンネルを世代ごとに分けるとかすればいいのよ。どの局も、ごっちゃになにもかも流すから同じようになってしまうのよ。視聴率が高くても、実質見てないのと同じってことが分かってないのよねー。
ハハ :そーね。ま、作る方からすれば難しい問題があるんだろうけどね。ところで、学校の個別懇談済んだの?
カナメ :済んだよ。…で、ね、わたし…専門学校でもいい?
ハハ :専門学校!?なにすんの?
..カナメは思い切ってイラストをやりたい事を告白した。
ハハ :えー、絵をかくの?じゃ、白薔薇女学院は受けないの?
カナメ :白薔薇?なにすんのよ?
ハハ :英文科とか、家政科とか…
カナメ :えー!!、わたしが、白薔薇の英文科?!どこから、そんな発想が生まれてくるの?あそこは、お嬢様学校よ。それとも、「わたくし、白薔薇の英文科でございます。ごきげんよう」って、そうなって欲しかったの?
..かなめの芝居がかった台詞に母は笑ったが、すぐ俯いてしまった。カナメには晴天の霹靂だ。
カナメ :まさか、「宅の娘は、白薔薇の英文科ざーますの。ほほほ」ってのが希望なの?あそこは、寄付金だのなんだので、他の何倍もお金がかかるのよ。
ハハ :だって…生涯一度のことだもの…ウチはお金持ちじゃないけど、ううん、お金持ちじゃないからこそ、このさいできるだけのことをしてやりたいのよ。だから、白薔薇へ行けるものならって…
..カナメの本心は漫画家だ。それもどちらかといえばギャグ漫画。それなのに母の願いは「深窓のお嬢様」だ。この格差に救いは無い。そして、カナメはカズヤの言葉を思い出した。「専門学校ひとつでも、むつかしいぞ」<もしかしたら、お兄ちゃんは母さんの希望知ってたのかな?>「風呂に入る」とカナメは立ち上がった。
..風呂からあがると、父が食事をしていた。カズヤは先に帰って部屋に籠もったようだ。時計を見ると8時を少し回ってる。<ラブコールタイムだな>カナメは部屋で漫画の続きにとりかかった。結局「漫画家セット」を購入したのだ。数種類あるペンや筆の使い分け、スクリーントーンの効果的な使用法、効果的なネームなどを教本とDVDで学び、いま添削用の課題の1ページ物に没頭している。もう気分はすっかり売れっ子作家先生なのだ。キャラクターを決め、鉛筆描きの状態まできている。本人としては、かなりな出来栄えだ。もうひと工夫したら、まずカズヤに見てもらおうと思っている。
..ひとたび取り掛かると時間の経つのを忘れてしまう。ドアを軽くノックする音がしてカズヤが入ってきたのに気づかなかった。
カズヤ:なんだ、漫画かいてたのか?
..その声に文字通り飛び上がった。
カナメ :脅かさないでよ!
カズヤ:ノックしたぞ。それ、添削用か?
..カナメは上体で原稿を覆い隠す。
カナメ :まだ見ちゃダメ!下書きが完成したら見せるから。ラブコールは終わったの?
..9時まで待ったが電話はなく、一旦待つのを止めたのだ。<なにか起きたのかな?>だが、確かめる術は無い。帰宅するとすぐに、カズヤは母からカナメとのやり取りを聞かされた。
カズヤ:母さんに聞いたよ。専門学校のこと言ったんだって。
..カナメもさきほどのやり取りを告げた。
カナメ :要するにお母さんのミエよ。白薔薇なんてバカげてる。かっこつけたいのよ。
カズヤ:
..カズヤは暫く黙っていた。
カズヤ:あのなー…
..やがてゆっくりと話し始めた。
カズヤ:おまえが、そう思うのは判るぜ。けどなー、ちょっと違うぞ。ウチは貧乏でもないけど、もちろん金持ちでもない。だからな、お母さんにちょっと引け目があるんだよ。
カナメ :引け目?
カズヤ:ああ、例えば、おまえ今までにシュンスケをうらやましいと思ったことないか?
カナメ :コウイチ叔父さんちのシュンスケ?
カズヤ:うん。
カナメ :そりゃ、あるよ。何度も。だって叔父さんち金持ちだし、いいなーって…
カズヤ:じゃーな。おまえがそう思うたびに母さんが辛く感じていたって事、思った事ないか?
カナメ :…な…い。
カズヤ:引け目って、その事だよ。つまり、オレやおまえに多少は辛い思いをさせてきた。その思いが母さんの中に積もっているんだ。
カナメ :
カズヤ:だからな、白薔薇の事も元はそこらにあるんだとオレは思うぜ。つまり、白薔薇英文科卒の「お嬢様の称号」を今までの罪滅ぼしに贈ってやりたいのさ。
カナメ :それなら、なにも白薔薇でなくっても…
カズヤ:いや、母さんにはそれしか思いつかないんだよ。それが母さんにはベストなんだ。つまり、母さんがミエを張りたくて言ってるんじゃないんだ。おまえのために精一杯考えた事なんだ。だから、一方的にミエだと決めつけるなよ。おまえの事思えばこそだから。
..カナメは俯いた。
カナメ :じゃ、白薔薇にしろって言うの?
カズヤ:いや、そうじゃない。おまえにも勘違いがあるって言いたかっただけさ。第一おまえに白薔薇は似合わない。
カナメ :そうだよねー。
カズヤ:ま、母さんの気持ちも分かってやれよ。専門学校のことはオレからも話しておくから。で、話しはちょっと代わるけど、叔父さんの事な。
カナメ :うん。
カズヤ:急に大金がいるって言われて、母さんとしては、とんでもない番狂わせだったんだ。白薔薇計画がおじゃんになりかねないからな。
カナメ :そーよね。
カズヤ:なんとか遣り繰りして、白薔薇へ行けるようにがんばってきたのに煙のように消えかねない。
カナメ :だから、お母さん、カナの短大のこと何度も言ってたんだ。
カズヤ:そー言うこと。
..だがそのときカズヤはカナメの脳構造を忘れていた。窮地に立つと逆スゥイッチが入って、脳が「日本晴れ」の快晴になるのだ。
カナメ :そーだ!
..カナメは叫ぶと、鉛筆を持って原稿に何か描きこんだ。
カナメ :できた!!
..カズヤが立って覗き込む。最初の桝に「白ばら かおる」と書いてある。
カズヤ:なんだ、これ?
カナメ :ペンネームどうしようか迷ってたのよ。「白ばら かおる」いいでしょ。
..カナメは満面の笑みだ。
カナメ :これなら、わたしが売れたとき、お母さん「宅のむすめは 白薔薇です」って、大いばりで宣言できるよ。
カズヤ:<あのなー…>
..言葉がでない。<作者が「白ばら かおる」で、中味は「つる姫じゃー」ばりのギャグ漫画か?>
カズヤ:オレ、風呂入るわ。
.. 立ち上がったカズヤを無視してカナメははしゃぐ。
カナメ :サインの練習しなくちゃ!ああ、いそがしい!


レイカ:トシシュンのこと?何かしら?
..博物館の喫茶コーナーでレイカがクリコに訊いた。クリコはドクターカレッジの研究生だ。今回のオペレーション「トシシュン」は、非常に大掛かりだ。異時空間先導士を総動員しても手が足りない。そこでドクターカレッジの研究生から希望者を募って何人か採用している。クリコもその一人だ。先導士は殆ど全員狩り出されているが、高度なテクノロジーに関わる仕事が主で、現地の人間と直接コンタクトする者はいない。2014年(平成26年)の現地人と関わるのは研究生の3名で、特にクリコがその殆どの重要な役割を担っている。研究生には仮のコードが与えられた。クリコは、
......392クリコ0000 (0000は仮または臨時登録) だ。
クリコ:今回のオペレーションは過去の変更にならないのか、そこがどうもよく判らなくて…さらに、わたし、このままいくと大変な犯罪人になるんじゃないですか?
レイカ:…そうなるわね。それで、質問に答える前に、ひとつ確かめていい?
..レイカがクリコを制する。クリコは頷いた。
レイカ:ここまでのコンタクトは、どうなの?計画通り進んでいるの?
クリコ:はい。いまのところ指示された計画どおりきています。問題はありません。
レイカ:ごめんなさいね。わたしも進み具合をチェックしなきゃいけないんだけど、何かと忙しくてトシシュンの事は余り関わっていないのよ。じゃ順調なのね。で、トシシュンが過去の変更に当たらないかの質問だけど、結論から言うと変更じゃないわ。と言うより、過去を変更することなくその近未来を再誘発させるという、極めて繊細な計算を必要とするオペレーションなのね。そして、今回はカズヤさんが選ばれたんだけど、条件が多いので人選に大変な労力・時間が費やされたのよ。
クリコ:じゃ、わたし達が関与しなくてもカズヤさんは競馬で大金を手にするということですか?
レイカ:そう、それがもう確定している過去の事実だから。正しく言えば、大金を手にするのはカズヤさんじゃなく、コウイチさんだけどね。
クリコ:そこが判りません。それなら、なにもわたし達が力を貸して努力しなくても、放っておけば、コウイチさんは競馬に当たるんじゃないですか?それが確定している過去なら。
レイカ:わたし達の目的は、コウイチさんに競馬を当てさせることじゃないの。当てさせるだけなら、あなたの言うように何もしないで放っておけばいいのよ。今回のオペ「トシシユン」は、当たり馬券を知ったカズヤさんが、果たして買うかどうかの再現なの。いつのどの時点においても「未来は不確定である」というのが宇宙時空学の第二定理なのを思い出してね。つまりわたし達から見ればカズヤさんの未来は確定しているけど、平成26年のカズヤさんには未来は未確定なのよ。けど、「競馬で大当たり」という事実は変えられない。そこはいじらないで、はたして不確定の未来がどんな過程を踏んで確定していくのかを見定めるのがオペレーション「トシシュン」なのよ。判るかしら?
クリコ:なんとなく…でも、これからカズヤさんに「当たり馬券」を教えるんですよね?
レイカ:正確に言うとちょっと違うけど、そう言う事になるわね。
クリコ:矛盾しませんか?つまり、…もう確定した過去ではカズヤさんは当てているんですよね?
レイカ:そうよ。そして、その変更は出来ない。
クリコ:それなのに、わたしはこれからカズヤさんが「当たる」ために力を貸す…んですか?じゃ、なぜ、過去にカズヤさんは「当てた」んですか?どうやって?
レイカ:あなたは宇宙理学の博士で、間もなくセンダツ(先達)の選考を受け、先導士が希望なのよね?
クリコ:はい。この秋に。
レイカ:残念ながら、まだベクトル理学の呪縛が解けないようね。確定した過去で、カズヤさんが「当たる」ように力を貸したのは、他ならぬ「あなた」よ。
クリコ:わたし…ですか?まだ何もしていませんけど…
レイカ:今日中にあなたはカズヤさん、というよりコウイチさんに力を貸す。そしてそれが、過去として確定するという事よ。ただ、コウイチさんに教えるだけでは弱いかもしれない。もう一手ダメ押ししないと実際の行動に移らないかもしれないわね。
クリコ:なんか、回りくどい方法の気がするんですけど…
レイカ:?、もしかして、このオペレーションの目的を聞いてないの?
クリコ:人は「杜子春」のような幸運に恵まれたらどんな行動をとるか、じゃないですか?
レイカ:ううん。そうじゃないわ。もっと大きなテーマのためのオペレーションよ。そうねー…時間が経てば未来に近づく。誰でもそう思うわよね?
クリコ:はい。
レイカ:でも、もしかしたら時間は未来に向かっているのではなくて、ただ過去を生み続けているだけなのかもしれない。「まるで湧き水のように、時間の泉から絶え間なく過去が発生していくので、時間が未来という方向に進んでいると錯覚する」というのが、「反時間理論」よね?「先達課程」もそろそろ終了なんだから、学んだでしょ?
クリコ:はい。
レイカ:だから、厳密にはどの時点においても、未来という時間はどこにも存在しない。たとえ一次時間界にさえ。でも、「宇宙エネルギー理論」との整合性から類推すると、おおよそ500年先の時間は発生し始めている…
クリコ:そして、二日先の未来はおおよそ形をなしている、ですね?
レイカ:そう、そしていつの「現在」も無数の未来候補の時間を誘発し、条件が合致する唯一つが選択される。 で、どう決定されるのか、それはよく判らないままになっていたのよ。第一に要素が無限大なので手に負えなかった。それが、ある若い研究生の論文から話しがひょんな方向へ発展し、未来選択の過程が推測できるかもしれない、という意見がでてきた。そして、それを確かめてみようというのが、今回のオペレーション「トシシュン」なの。
クリコ:つまり、トシシユンは未来を捕まえるオペですか?

レイカ:そう、過去にコウイチさんが馬券を買うか買わないか、そしてそのそれぞれがどんな結果を生むか、つまりどんな未来につながるか。そして結果は唯一つに絞られるが、その過程はいかに決定されるのか…その過程を事前に推測することが可能なのか、それを検証するのが「トシシュン」の目的なのよ。
クリコ:そうだったんですか。ただ馬券が当たるとどうなるかなんて話しじゃないんですね。これまで不可能とされた「未来を覗く」可能性の追求だったんですね。
レイカ:そうよ…ただ…わたしは余り賛成できない。10年、50年先の未来を知ってしまう…その時ヒトはどんな行動をとるか…それを想像すると恐ろしくなるわ。特に政治体制に関わる事だと、これは核兵器などより何倍も深刻な事態を招くかも。どちらにしても、誰もあなたにちゃんと説明してなかったのね。ごめんなさい。その点については、わたしにも責任があるわ。これからも判らない事があれば、迷わないで何でも聞いてね。でも、これで任されたタスクの重要性が理解できたでしょ。あなたの任務の成否に全てがかかっているのよ。みんながあなたの成果に注目しているの。
クリコ:なんか、すごいプレッシャーです。
レイカ:あなたも、いずれは先導士として活躍する。その第一歩ね。がんばって…
..言いながらレイカはメモ帳を破り取ると何か書いて差し出した。
..3月23日 中山 10レース 3連単 5−3−2
レイカ:これが、当たり券よ。倍率は2450倍の高額配当。
..クリコはじっと見つめる。
レイカ:それをコウイチさんに教えて。
クリコ:学習してちょっとだけ当時の競馬にくわしくなりました。これを買うと、投資額が2450倍になって戻ってくるんですか?
レイカ:そうよ。
クリコ:100円買えば…245000円…わーお!
レイカ:ただし、あなたが自分で買っちゃダメよ。分かっているわね。過去にそれをやってしまって、人生を棒にふった先導士がいるわ。気をつけてね。それをできるだけさりげなくコウイチさんに伝えて。
..いいながら、レイカはペーパーPCをいじっている。何か調べているようだ。
レイカ:10532か…
..ぶつぶつと呟いていたが、もう1枚書くと差し出した。
レイカ:こっちはダメ押しの分。進行状況を見て、使い方はまた指示するから、保管しておいて。
..見ると「標語」のような物がかいてある。意味が判らないままにクリコは受け取った。
クリコ:分かりました。
レイカ:じゃ、仕事があるんでこれで。また連絡するわ。
..レイカは腰を浮かせる。クリコは渡されたメモを見つめていたが、
クリコ:レイカ先生!
..去って行くレイカを呼び止めた。振り返ったレイカに叫ぶように訴えた。
クリコ:恋人、ステディな男性はいらっしゃるんですか?!
..しばらくの間があってレイカは答えた。
レイカ:いいえ。どうして?
クリコ:あの、アツシ先生とは?人類学研究室のアツシ先生とお付き合いしていらっしゃるのでは?
レイカ:アツシ先生?…どうして、そう思うのかしら?
クリコ:最近、よくご一緒されているようですので…
レイカ:<この子、もしかして追跡モスキートを使ってる?>ええ、そう言えば2-3回ご一緒する機会が続いたわ。プライベート抜きでね。でも、それがどうかした?
クリコ:いえ…ただ…ステディな関係なのかなって…ごめんなさい、失礼な事言いました。本当にごめんなさい。
..クリコは突然突風にあおられたかのように翻ると走り去った。レイカはあっけにとられて見送る。
レイカ:ね、モスキート。
..モスキートの機能は、機関内に入ると停止させることにしている。危険性はまずないし、仕事で必要なこともないからだ。
モスキト:ハイ、オ呼ビデスカ。
..呼びかけでONになったモスキートが耳元へ飛んで来た。
レイカ:最近「追跡モスキート」に監視されていなかったかしら?
..2秒後、
モスキト:過去一ヶ月間ヲ調査シマシタ。コノ前ノ事件以外ニ追跡サレタ形跡ハアリマセン。ソンナ事態ガ起コレバスグニ私ガ気ヅキマス。見落トス事ナドアリエマセン。
レイカ:そうよね。ごめん、あなたを疑った訳じゃないのよ。万が一と思って。
モスキト:アナタノ安全ハワタシガ守リマス。ゴ信頼クダサイ。
レイカ:よろしくね。お陰で心強いわ。<カーサンに言いつけさえしなければだけど>


..金曜日午前。会社でPCを叩いていたカズヤは他課の同僚に声をかけられ、Pの結婚祝賀パーティ参加費1万円を徴収された。祝儀を皆はどうするのか訊くと、いろいろだと言う。
カズヤ:そりゃ、そうだな。付き合いの程度は人それぞれだからな。
..カズヤはタケシと相談の結果、当日本人に1万円を渡すことにした。これで3月9日に稼いだ37万は、ほとんど無くなった。あとは、サオリのスマホ用に10万円残すのみだ。タケシに貸した20万の返済がいつになるかは、当てにできないだろう。<けっこう大金だと思ったけど、あっという間に無くなったなー>だが、仕事が立て込んでいて、感慨に耽っている間はなかった。プレゼンが控えているのだ。その準備に忙殺される。帰宅の8時までに頭を過ぎったのは、昨日サオリから電話が無かった事、クミコが話した600万円の事だ。
..帰宅すると、カナメがダイニングのテーブルを占有し宿題をやっていた。その端に遠慮するように席を取ってカズヤはビールを運ぶ。父はソファーでテレビを見ていた。
カナメ :「イチゴ良く食うザビエルさん」
..カナメの前には沢山の暗記カードが散らばっている。どうやら日本史の勉強中らしい。
カズヤ:もしかして、それって「以後良く広まるキリスト教」じゃねえ?
カナメ :いいの、いいの。
..カズヤは、暗記カードを数枚拾って見る。表に短文、裏に大きな数字とちょっとしたイラストが描いてある。
..「大化の改新虫5匹」の裏には、
......645
......(イルカの家が火事で燃え5匹の虫が逃げている)
......中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我入鹿
カズヤ:「オスカル行く行く、ベルサイユ」…?
..ひっくり返す。
......1919
...... (バラの花に囲まれたヨーロッパの宮殿)
......一次大戦終了、ベルサイユ条約
..<徹底してギャグだな>いくつか拾って見ると、思わず吹き出すのもあった。イラストもなかなかのもんだ。興味を引かれ次々と眺めていく。<ひょっとして、こいつモノになるかも…>それは、カズヤが初めてカナメの才能を認めた瞬間だった。
カナメ :ね、お兄ちゃん、宇治の平等院鳳凰堂作ったのだーれだ?
カズヤ:えーっ、いきなりだな。…藤原氏には間違いないな…そう、頼道だろ?
カナメ :ピンポーン。じゃ、西暦何年?
カズヤ:知らねー、だいたい1000年ころだな。
カナメ :はい。これ。
..出されたのは、暗記カードではなく手帳の切れ端のようだった。
......人ごみに鳳凰舞う平等院
カナメ :それ、これからカードに清書するんだけど…
カズヤ:だけど…?
カナメ :まるで、優等生の模範解答みたいじゃん?そこがねー…
カズヤ:これ、おまえが考えたんじゃないのか?
..カナメの話しによると、日本史の時間に先生から提案があった。「語呂合わせ」を一人三つ作ってくる事、そうすれば日本史クラス全体で500は集まる。そしてそれの一覧表を作る、という計画だ。10人ていどづつの班に別れ、カナメの班では日本史が得意で絵が描けるカナメが班長に押し出された。それで今、班の分を清書しイラストを加えて完成させているのだ。
カナメ :ううん。それ、わたしじゃない。て、いうより誰が考えたのかわかんない。靴箱に入ってたの。
..確かに綺麗な字だ。カナメが下校時に靴箱を開けると、靴に入っていたという。
カナメ :班の誰かが、急いで帰るんで放り込んでいったんだと思う。けど、真面目すぎて浮いちゃってるのよねー。
..カズヤはもう一度眺める。
カズヤ:いいんじゃねえ。むしろギャグばっかじゃ、数が集まると玩具箱ひっくり返したみたいに、却ってごちゃごちゃになるぞ。
カナメ :そ、かー。そうだね。じゃ採用だ。
カズヤ:たしか、鳳凰堂はこの世に極楽浄土を出現させようとして作られたはずだから、お披露目は多くの貴族を招いて盛大に行われただろうな。だから「ひとごみに鳳凰舞う…」は、いいんじゃねえ?
カナメ :へー、平等院ってテーマパークだったんだ。「極楽ランド」だね。
カズヤ:て事は、1053年か。
カナメ :正解。
カズヤ:なかなかいいんじゃねえー。オレ、きっと一生忘れないぜ。
カナメ :そう…じゃ、イラストも気合いれるか。
..カナメは清書を始めた。しばらくカズヤはそれを見ていた。いや、正しく言えば見惚れていた。どんなカットをいれるかと興味があったが、それが早いのだ。カナメはほとんど考える間なく書き進めいく。すぐにできあがった。カズヤは手を伸ばし取り上げて見る。カットは、おちょぼ口の眉なし貴公子が建物の屋根を指差し「鳳凰でおじゃる」と感動している。もう一人の烏帽子のづれたアホづら貴公子が「ほおー」
..<才能だな>改めて感心した。
カナメ :お兄ちゃん。
..呼ばれて頭を上げる。
カナメ :ラブコールは?今日まだなの?
..そうだ、まだサオリの電話はない。ここまでカズヤも忘れていた訳ではない。クミコの昨日の話しを確かめたい。が、もう9時になろうとしている。<きょうも無いかな?病院に詰っきりなのか?>生返事をしてカズヤは食事を済ませ部屋に引き上げた。
..ベッドに転がったところでスマホが鳴った。<来た!>サオリではなかった。タケシだ。
タケシ :確認だけど明日の祝儀1万円だな。
カズヤ:そうだ。レザミで4時だったよな。ウィンズどうする?頼まれてるのか?
タケシ :あした土曜の分だけ。少しな。日曜は無い。だからオレあしたは昼に渋谷へ行って、そこから乃木坂レザミへ回るつもりだけど、カズはどうする?
カズヤ:ウィンズは止めとくわ。金もなくなったしな。乃木坂に直行だな。
タケシ :使徒の「お告げ」はないのか?
カズヤ:いまのとこそれらしい気配はない。もしあれば、すぐ知らせるよ。
タケシ :そ…か。じゃ、レザミで会おうや。ところで…さ。
..タケシが言い淀む。カズヤはしばらく待った。
カズヤ:なんだよ?
タケシ :カズさ。結婚するつもりか?
カズヤ:そんな話しはない。どうして?
タケシ :いや、もしかして、もしかしてだよ…結婚するについてマンション購入のローンを組むとかしていないかな…て。
カズヤ:マンション?ローン?なんだ、それ。そんな事ないぜ。
タケシ :いや、無いならいいんだ。忘れてくれ。つまらん事言った。スマン。じゃ、明日な。
..そして、この晩サオリからの連絡はなかった。 翌日目覚めてダイニングに降りると、母が朝の片付けをしている。父は狭い庭で工作道具を広げ鋸を握っている。花台を作るつもりらしい。遅い朝食をとりながら、今日は帰りが遅くなる事、夕食は外で済ます事を告げる。
ハハ :え、結婚披露パーティ。じゃ、礼服着ていかなかきゃ。どうして、そう云う事先に言わないのよ。準備があるんだから。
..さっそく母の小言だ。服装については「本当に普段着のままでいい」と幹事から言われている。だからカズヤも特別に考慮していない。それを伝え、
カズヤ:それよりかさー、カナメはまだ寝てる?
..彼女は、部活のためいつもどおり早く出かけたという返事だ。カズヤはチャンスだと思い、カナメの進学を話題にした。自分も、カナメは専門学校でデザイン・イラストを身に着けるのが一番いいと思う、と気合を込めて伝えた。
ハハ :そう…でもねー、絵の勉強なんかしたって、食べていけるかねー。
..母はかなり不満そうだ。
カズヤ:あいつさー、母さんが思っているより才能あるぜ。オレは、意外にモノになるんじゃないかと思っている。やらせてみたら?もしダメでも世の中に仕事はいろいろあるし…
..そして部屋で服を選んだ結果、先日のサオリ見立てのファッションに落ち着いた。早めに家を出て、理容店に向かう。店長の「おや、今日はずいぶんキメてますねー。デートかな」の挨拶に、
カズヤ:結婚パーティなんだ。
..告げると、「なるほど、じゃ、ばっちりカラーリングでもしましょうか!」とテンションが上がった。
カズヤ:いや、花嫁さんに惚れられるとマズイからほどほどに。
..共に爆笑し、小一時間後いまどきカットが誕生した。山の手線・地下鉄を乗り継ぎ乃木坂へ向かう。サオリのスマホが見つかったという連絡は無い。無言で電車に揺られているといろんな思いが湧いてくる。<もう限界だな…スマホ買うか…>、<600万円あれば、お母さんの病気は治るかもしれない…>カズヤは会場のレストランへ30分早く着いた。まだ店員がばたばたしているし、会社の人間は受付を準備したり打ち合わせたりそれぞれに忙しそうだ。別室の小部屋へ行くと、花婿Pは着慣れないタキシードでぎくしゃくと歩き回っていた。祝いの言葉を述べ祝儀を渡す。
カズヤ:どうだ、シングル卒業気分は?
P :オレが所帯持ちなんて、妙な気分だぜ。
..タケシはまだ来ていない。恐らくいまごろ必死に計算しているのだろう。<儲けてるかな?またポカしなけりゃいいが…>すぐに時間が経った。パーティは予定どおり4時に開会した。開会の挨拶が済んだ頃タケシがカズヤの横に立った。まだ息を弾ませている。
カズヤ:どうだ?きょうの首尾は。
タケシ :ああ、まあまあだ。
..後で聞いたところ、ウインズへは行ったが、きょうは全く買わなかったと言う。全部呑んだらしい。「当たり券無し」だったので「まあまあ」なのだ。
..6時半頃だったと思うが、二次会に行った。そこまでは新郎・新婦共に居た。さらに三次会へとはしごをした記憶がある。人数もかなり減っていた。そして、そこで一度電話で話した気がする。たしかにサオリだったが、話の内容に記憶が無い。ただ、「母親は順調に回復している」と聞いた気がする。おそらくカズヤがかなりできあがっているので、永い話しにはならなかったようだ。何時にどうやって帰ったか記憶にない。
..日曜に目覚めたカズヤは、下着のままだった。昨日の事は、二次会終了のころまでは思い出せるが、その後どこに居たのか分からない。断片的な映像が浮かぶだけだ。カズヤは、起き上がるとのろのろと衣服を身に着けた。トイレに行き、母の、
ハハ :ご飯、どうするの?
..の声に
カズヤ:いらない。
..と答えお茶を持って戻った。父は庭で花台作りの続きに精を出していた。カズヤはどっかと椅子に掛ける。もう昼を回っている。机の上にはコウイチ叔父の残したメモがある。<やっぱり、「お告げ」は終わったな>カズヤの目は、見るともなしにその数字を見ている。
.......105−3−2
..不思議な気分が体内に湧き上がった。<最近、この数字、どこかで見たような…?>さらに見つめた。<いや、確かに見た…10532…>カナメの笑顔が蘇る<人ごみに…!…そんな…バカな…?> 叔父は、会社の社員から聞いた。カナメは学校の靴箱で見つけた。どう考えても二者に関連性は無い。だが、いや、だからこそ不思議さが増す。何の関連も無い物がカズヤに惹かれるように集まって出会った…。<これは、単なる偶然か…?>頭が熱くなる。
カズヤ:そんなバカな!
..気づかぬ内に大声を発していた。しばらく我を忘れた。<これは、 「お告げ」…か!>頭の中で、黄金に光り輝く鳳凰が悠然と舞い上がる。PCで今日のレースを調べる。10レースは、「15:10発走」だ。あと1時間少し。倍率は2351.2。カズヤは、投票のネット登録はしていない。だが、今回は倍率が高いので支払い上限のあるネット登録では、どうせ意味がない。ウィンズまでいくしかないが、時間がない。急いでコウイチに電話する。幸いにすぐに出た。
カズヤ:叔父さん、実は急いでいます。質問に答えてください。先日の馬券は会社の従業員から聞いたんでしたね?
コウイチ:どうしたんだ?違うよ、社員じゃない。あれは…保険会社の社員かな?
カズヤ:え、会社の人じゃないんですか?!
コウイチ:会社の駐車場に戻ったとき、若い女性に声を掛けられたんだ。ナントカ生命と言った気がするけど、憶えてないなー。「今度の日曜、お誕生日でしたね。おめでとうございます」てね。
カズヤ:それで?
コウイチ:今年の誕生日プレゼントはサプライズ・プレゼントですって、あの馬券のメモをするよういわれたんだよ。
カズヤ:どんな女性でした?
コウイチ:どんなっていわれてもなー、25歳くらいかな、特にこれといった特徴はなかったと思うけど…
カズヤ:サプライズって言ったんですか?
コウイチ:そう。たしかそう言った。そういえば毎年粗品が届いた気がするけど、銀行・信金・組合それに保険も数社あるから、どこの社員かはわからんなー。
..カズヤは目を瞑り口をきつく結ぶ。決断しなければならない。
コウイチ:もしもし、それがどうかしたのか?
カズヤ:叔父さん!その馬券買ってください!
..電話の向こうで息を飲んだようだった。
コウイチ:でも、買い方を知らない。
カズヤ:ぼくが今から場外馬券売り場へ行きます。幾らなら買えますか?!
..ちょっと間があった。
コウイチ:恥ずかしながら、一万は無理だ。7千円というとこだな。
カズヤ:絶対の保障はもちろんありません。でも、買ったほうがいいです!じゃ、7千円買いますがいいですか?
コウイチ:ああ…
..出走まであと55分。電車に乗っている実時間はおよそ40分だ。乗車時以外は全て走らなければおそらく間に合わない。カズヤは財布とスマホを取ると階段を駆け下りた。飛び出したカズヤを母の声が追いかけたが、耳に入らなかった。二日酔いの身には、いきなりの全力疾走はかなりこたえる。<間に合ってくれ!とにかく間に合ってくれ!>電車の中でも落ち着かない。走りたい気分だ。<早く、もっと早く走れ!>乗り換え駅で飛び降りると、人ごみを避けて走った。多くの人が、何事だという表情で見送る。山の手線でポールにしがみつくようにして、かってに動くからだをなんとか押さえていた。渋谷に着くと猛ダッシュだ。息が弾み、口が渇く。ウィンズ近くで走りながら時間を確かめる。
..15:02
..人ごみにぶつかりながら飛び込み、すぐにカードを取る。マークする時になって、初めて所持金の不安が襲った。ゆうべかなり消費したはずだ。慌てて財布を開く。一万円札1枚、千円札1枚だ。発券機に一万円が吸い込まれた。そしてカズヤは、投票券2枚を受け取った。15時12分だった。大きな息が体の奥からもれた。喉が干からびている。自販機で炭酸飲料を買うと一気に飲み干した。心も体もエネルギーを消費しつくし抜け殻のようだ。一息つくと実況中継を見ないでウィンズを後にした。見るのが怖かったのだ。 駅につくころに、ようやく平常心が回復した。いや、正確には嵐はすぎたが余韻は残っていた。平常心というには、まだ違う位置に立っていた。<当たりなら2千万円以上だ…> 喫茶店に入り目立たない隅の席を取った。ランチセットを注文しスマホを取り出す。イヤーフォンを差して、「中央競馬会」を呼び出す。まず、本日のレース結果だ。鼓動が変わり息苦しくなった。目を瞑り一呼吸して10レースをさがす。
..3連単 5-3-2
..245,420円 735番人気
..カズヤは、しばらくその画面を見つめていた。その間にランチセットが運ばれていた。表現しようのない感慨に襲われた。マグカップを持ち上げると手が震えている。スープが波打って零れそうだ。なんとかそれを飲んだだけで、かなり永い時間ぼーっとしていた。やがて、「レース映像......PLAY」をクリックした。


..レイカを取り囲んでいるのは、一般学校の中高生にあたる子供たちがほとんどだ。ジュニァ・カレッジの授業は、半分はレイカの講義だが半分はゼミナール形式だ。さっきから過去に遡る方法について議論が続いている。
a :そんなの不可能さ。だって光りより速い移動は不可能なんだから。
..胸に下がったIDカードに「a 13」と書いてある、いたずら好きそうなa少年が、何となく議論の中心にいる。13歳だ。
b :でも、時間軸を短絡できれば光りより先に進めるんじゃない?
..「b 15」の少女だ。
c :それって昔のマンガによくあったワープのことだろ?ワープなんてバカげてるもいいとこだよ。時間軸を短縮するなんて、どんだけのエネルギーがいるか、考える気にさえならんよ。超新星100個の爆発エネルギーでも全然足りない。子どもだまし以下だ。
..「c 16」が少々苛立って発言した。
d :じゃ、ワームホールならどうよ。
..「d 14」だ。
c :同じ事だろ。ワームホールを生成し維持するのは、同じスケールのブラックホールを生成し維持するのと同量のエネルギーがいるぜ。そんな物、どうやって管理するんだ?
a :けどさ、現実には過去に行けるわけで…
..と、aは救いを求めるようにレイカを見る。「はい、はい」手を打ち、笑顔でレイカが立ち上がる。
レイカ:このまま討論を続けても、同じ所を堂々巡りするだけだよね?それとも、何か別の発想はある?
..誰からも発言は無い。やがて、aがぼそっと言った。
a :どうどう巡りって事は、ぼくたちの議論は同一平面上を駆け回っているだけで…
レイカ:…だけで…?
a :つまり、もう一つ別の次元へ踏み出さないと、脱出できないって事かなー…って。うまく言えないんですけど…
レイカ:そう、よく気がついたわね。その通りよ。つまり、今のあなた達は二次ベクトル平面の上で-いえ、地球のようなトポロジー表面でもいいんだけど-なんとか解決の出口を捜してる。けど、それではいつまで経っても出口は見つからない。例えば、頭上や足の下にまで目を向けないといけないらしいという事になるわね。言い方を替えると、過去を見るのに過ぎ去った光りを追いかけるような発想では、なんの解決にもならないという事ね。
..何人かが頷いた。
レイカ:だって、過去の光りを追いかけて過去を見る行為は、わたし達は大昔からすでにやってるわよね。
c :そうです。ぼくたちが見ている10万光年向こうの星は、10万年前のものです。
レイカ:そう、その通り。逆に、その星は10万年前の地球を見ているはず。でも見られるだけで、そこに何の実態もない。つまり、10万年遡ったことにはならないわね。
d :だから、光りを追いかけるみたいな発想自体には意味がない…
レイカ:分かってくれたようね。今日の討論の目的は、それに気づいてもらうことだったの。今日のゼミは有益だったわ。
a :でも、発想の次元を替えるといっても、見当がつきません。
レイカ:うーーん、講義は「時間元と時間界」が済んで、次から「時間界からベクトル界への写像」に入る予定なので、そこまで修得しないと、これ以上ちょっと進展させようがないのよ。今日は、とにかく今までの概念の延長では、解決の糸口はつかめない事を理解してもらえば充分なの。だから、次回講義までにカレッジのサイトで「ベクトル界への写像」について予習しておいて欲しいの。
..大多数がレイカの言葉に頷いた。解散になり学生たちは引き上げた。カレッジ一番の人気講座だけあって参加者が多い。退出にも時間がかかる。ようやくだれも居なくなると一人の女性が近づいてきた。クリコだ。クリコは今だに時々レイカのゼミなどに顔を出し離れて見学している。レイカもそれを承知しているので、今日も気にする事はなかった。ただ、内容的にごく初歩レベルなので<退屈だろうに>と思っているだけだ。が、今日のクリコは、小さな小学3−4年くらいの子どもの手を引いていた。
クリコ:先生、お疲れ様です。
レイカ:あら、かわいい坊やね。どうしたの?
クリコ:この子のことは、のちほど。で、まず、ご報告いたします。例のダメ押しのメモは、ご指示どおりカナメさんの靴箱にいれておきました。
レイカ:それで?
クリコ:帰宅時だったので、カナメさんは家へ持って帰りました。
レイカ:それでいいわ。予定通りよ。
クリコ:これでカズヤさんは馬券を買いますか?
レイカ:シュミレーションするまでもないわ。それが確定した過去だから。
クリコ:でもわたしの仕事は終わりじゃないですよね?
レイカ:そうね。面倒な仕事が残っているわよね。
クリコ:気が重いです。だって、犯罪行為ですもの。
レイカ:必ずしもそうとは限らないわ。「未来不確定原理」は常に働いているから。それに、先導士たちが抱えている十字架はもっと重いのよ。この程度は、舞い落ちた木の葉が当たったくらいに思わなくちゃ先導士なんてとても務まらないわよ。
クリコ:そうですか…ところで、研究所内がひどく閑散としているんですけど。殆どまったく人に会いません。
レイカ:みんな出払っているわ。先導士や技術者は、ほとんど全員が2014年の世界中に散らばって「地球時間」を観測しているわ。本当はね、月・火星の基地でも観測できるといいんだけど、2014年じゃ無理なのよね。
クリコ:トシシュンのためにですか?
レイカ:そう。カズヤさんのとる行動は、馬券を買って大金を手にするか、買わないで大変な自己嫌悪に陥るか、その二つの未来がすでに発生し始めているの。その過程がいかに生成されそして消滅していくのか、それを見届けるのが今回のオペよね。「地球時間」の時震波の観測に、機関の殆ど全エネルギーが費やされているのよ。
クリコ:人手だけで足りますか?
レイカ:とんでもない。全然足りっこないわ。だから、2014年に100万個のミクロ衛星を成層圏に上げたの。でも、いくら0.1mmのミクロ衛星でも、当時ロケットではすぐに探知されてしまうので実行できないと分かった。
クリコ:どうしたんです?
レイカ:幸い、世界中で気象気球が毎日3度は上がっているので、目立たないよう気球で上げて成層圏にばらまいたのよ。
クリコ:今回のオペレーションが、おおがかりなんだとやっと理解できました。それで未来は予測できることになるでしょうか?
レイカ:それは分からないわね。でも、最大にうまくいった場合近未来のシュミレーションはできる事になるはず。
クリコ:未来を体感できる?
レイカ:あなたも分かっているわね。未来への移動は不可能。でもこれが旨くいけば、触感・温感のあるバーチャルリアリティの未来をかなりの精度で顕現できるはずよ。
クリコ:すごいですねー!
レイカ:だから、機関の全力を挙げて取り組んでいるのよ。いまごろ皆な緊張して成り行きを見守っているはずよ。
..そして、
レイカ:ああ、ぼく、ごめんね。こんな話し退屈だよね?
..子どもに話しかけた。
..男の子は、にこりと笑顔になった。
イチロー:ぼく、イチローです。お話し、おもしろいよ。
クリコ:先生、この子従兄弟なんですけど、話しをきいてやっていただけると助かるんですが…お忙しいのに申し訳ありません。
レイカ:?、ちょっとならいいわよ。わたしの部屋へ行きましょ。
..片付けの済んだレイカは歩き出す。クリコとイチローが後について行く。イチローは「二相宇宙論」という専門書らしき本を抱えている。
レイカ:イチローくん、それキミの本?ずいぶんむつかしそうだけど。
..部屋に入るとジュースとお菓子を頼んで腰を降ろした。
クリコ:この子、最近宇宙に興味をもって、質問してくるんですけど、わたしの答えじゃ納得できないようなんです。それで、先生のお力をお借りしたくて連れてきました。お忙しいのにほんとうに申し訳ありません。
..イチローはテーブルで本を開いている。
レイカ:そう…で、なにかわからない事があるのかなー?
..言いながら、イチローの本を覗く。<分かる所が一部でもあるかな?>と思う。とても小学生の読むような本ではない。
イチロー:あのね、この宇宙は、実は「二つの宇宙」からできているって書いてあるんだけど、別々の所にあるの?それとも玉子みたいに一つが一つに包まれているの?
レイカ:ああ、その話しね。…
..レイカは考え込んだ。小学生になんといったものやら…。クリコも面倒な子を連れて来たものだ。
レイカ:まずね、夜にはいっぱい星があるよね。
イチロー:うん。
レイカ:でも、その星が一つも無い宇宙を想像してみて。もちろんイチローくんの立っている地球も空気もないのよ。…どう、どんな感じ?
イチロー:んー、ただ真っ暗なだけ。
レイカ:そうよね。なにも見えない。でもね、見えないだけで何も無いわけじゃないの。そこには、モノの元になるエネルギーの粒のようなものがあるのよ。そしてそのエネルギーがずーっと「あり続ける」ために時間が流れる必要があるの。それが宇宙の始まりなの。そこまでいいかな?
イチロー:星はないの?
レイカ:まだ、ない。本当は、その前には宇宙の「広さ」さえなかったのよ。それが、ある時まるで大爆発するようにして「広さ」がひろがったんだけど、そのとき時間を抱えたエネルギーが生まれたの。おそらくものすごく高い温度の「熱」はあったと思う。でも、もしその時人間が見ていたとしてもやっぱり何も見えないし、粒があるのも感じない。ううん、沢山の光線が明滅するのは見えるかもしれない。それ以外に、見えたり感じたりする物はなにも無いの。その見えないエネルギーが宇宙を押し広げ支えているのよ。おお昔には、それを「ヒッグス粒子」とか「ダークマター」なんて変な名前で呼んでいた時もあったわ。今は、時間界の粒子様エネルギーは全て「物質様エネルギー」で統一され、カタカナのア、イ、ウを付けて「物質様エネルギー・ア」という風に呼んでいるのよ。略してただE(ア)と書くこともよくあるから憶えておくといいと思うわ。
イチロー:へー、じゃ、もし…そのエネルギーと時間を合体して元に戻すと「何にも無い世界」に戻るの?
レイカ:そう。よく気がついたわね。そのとおりよ。「広さ」さえない「0の世界」に戻ってしまうのよ。それが、現に今の宇宙でも起きているところがあるわ。
イチロー:もしかして、ブラックホールのこと?
レイカ:そうよ。イチローくん、賢いねー。
..そう言ってレイカはクミコを見た。クミコは呆れ顔だ。
レイカ:それが、第一の宇宙よ。「第一相宇宙」または「時間宇宙」と呼んでるわ。それから…んー、ベクトルってわかるかなー?別々の時間ベクトル二つの運動の働きで時間平面が現れて、その上でエネルギーが運動を与えられるとじょじょにヒモのようなモノになるんだけど、その平面を「二次時間界」と呼ぶのよ。それは、その本にもかいてあるんじゃない?
イチロー:うん。そう書いてあるよ。で、もう一つベクトルが組み合わさると「三次時間界」になるんだよね?
レイカ:よく知ってるねー。そのとおりよ。時間が三次元の流れを作るとその運動でエネルギーが三次元の「物」として生まれてくるの。だからモノは、みんな三次元の合成時間を「固有時間」として持っている。そして、その固有時間が他の固有時間と出会うと、一つの流れになろうとする力が働き始めるの。これがモノの引力となってモノ同志が互いに引き合う力となるんだけど、むつかしいよねー。
イチロー:ううん。そうでもないよ。じゃ、引力の元(もと)は時間なんだ。
レイカ:!、すごい。よく判ったねー!驚いたわ。
..再びレイカはクリコを見た。クリコは肩をすぼめている。
レイカ:で、ここでようやくわたし達の宇宙が現れ始めるのよ。「一相宇宙」には、質量-つまり「重さ」-を持つ物質は居場所がないのよ。だから、「時間宇宙」とはべつの世界にそのエネルギーが反映されて、もう一つの宇宙を作る。その投影された宇宙が「第二相宇宙」で「ベクトル宇宙」または、「質量宇宙」とも呼ぶわ。

イチロー:じゃ、それが僕たちが見たり感じたりする宇宙ってこと?
レイカ:そのとおり。二つの宇宙は、言い換えれば「見える宇宙」と「見えない宇宙」のことで、混ざり合っているのよ。
イチロー:ふーん、そうなんだ。じゃね、ニャゴズーは見えない宇宙に住んでいて時々こっちに現れるんだ。
レイカ:ニャゴズー?
イチロー:知らないの?
クリコ:あ、先生、ニャゴズーて、妖怪です。今子どもたちの間ではやっているらしいんです。
..クリコが慌てて解説した。
レイカ:妖怪ねー、妖怪のことはわからないけど、二相宇宙の事は分かったかな?
イチロー:うん。よく判った。
レイカ:でもね、その本を読む時一つ気をつけないといけないことがあるんだ。一相宇宙は「長さ」とか「方向」とかが無い変な世界なの。たとえば、高い山が凹んでいたり、真っ直ぐ前に進んでいたら自分の背中が見える。そんな世界なのよ。そのつもりでいないと、頭の中がごちゃごちゃになって訳がわからなくなるから気をつけてね。
イチロー:ふーん。やっぱ妖怪の世界だ。「お姉ちゃん先生」て頭いいんだね。
..<あーあ、ほめられちゃった>
レイカ:一休みしてお菓子をたべなさい。
..クリコが立ち上がって近づいた。
クリコ:済みませんでした。でもさすがですね、わたし、先生のように子どもに分かるように説明できません。やっぱり自分が理解できていないからなんでしょうか…
..落ち込んでいる。実はレイカも、クリコの能力には多少の疑問は感じている。<先導士の能力はあるだろうか?>何と言ったものか、黙っていると、クリコは、
クリコ:わたし、先導士になれないなら、先生の助手に使っていただけないでしょうか?
..............................コード資料....称号と範囲


レイカ:…助手ねー…
..実は、その話しは二度目だ。だいぶん以前にも全く同じ事を訊かれた覚えがある。
レイカ:なにも、わたしの助手でなくても、転送管理士の仕事ならいくらでもあるわよ。
..以前にもそう答えたはずだ。現在の移動は、昔ながらの航空機も飛んでいるが、より早い「転送」が一般的だ。空間移動で、東京パリなら5分で移動できる。人だけではなく、物流も「転送」が使用されている。世界中に転送拠点が設置され、10分以内には拠点から拠点に移送できる。だから長距離の自動車輸送は無くなった。これらは民間企業に委託されているが、「転送」には専門の「転送管理士」が要る。先導士や研究者の道をあきらめた者、あるいはもっと楽な道を選んだ者達はほとんどそこに進む。高給だし、その仕事ならいくらでもある。
..だが、一般社会に開放されているのは「空間移動」だけだ。「時間移動」は、許可されないどころか実績の公表すらない。時間移動を悪用する危険性は、計り知れなく大きい。過去を全てひっくり返す危険を孕んでいる。その上歴史の変更が、人為的に際限なく繰り返し引き起こされる可能性がある。だから「時間移動」が可能なのは世界で唯一、この「高度異時空間研究機関」のみで、「地球連合」の極めて厳重な管理下に 置かれているし、移動に関わる研究論文は一切公表されない。完璧な機密事項なのだ。したがって「異時空間先導士」の社会的地位は、きわめて高いのだ。
クリコ:助手が無理なら、秘書でもなんでもいいんですけど…
..たしかにレイカは忙しいが、今までに助手や秘書など人手の必要性を考えたことがない。レイカの行動予定などの管理は「カーサン」が自動的に組んでくれるし、考えている事を「トーサン」に呟いておけば自分の考えを整理しておいてくれる。つまり、なまじっか人手に頼るより機能的だし面倒がないのだ。<助手…今日の目的は、それだったの?>
イチロー:お姉ちゃん先生さ、どこでも、おお昔でも行けるんだよね?いいなー。
レイカ:どうして?どこか行きたいとこがあるの?
イチロー:あのね、恐竜の卵がほしいんだ。
レイカ:恐竜の卵?
イチロー:うん。そしたら育ててペットにするんだ。
レイカ:ペットねー。
..思わず笑ってしまった。
レイカ:だけどね、それ、ちょっと無理だと思うわよ。
イチロー:どうして?
..以前に日本狼のDNAを研究のために運んだ事がある。だが、予測されたとおり結果はうまくいかなかった。モノには、それを構成する物質による「固有時間」がある。岩石・金属などは数百億年と長いが、特に生命体はせいぜい100年だ。つまり100年以上未来へ運ぶと時間的齟齬が生ずる。従って生きながらえる生命力がない。それは、理論計算と一致する事を証明しただけに終わった。
レイカ:その訳はね、あとでクリコお姉さんから訊いてね。
..レイカはそろそろイチローから解放されたかった。クリコを振り返り、
レイカ:助手の事は考えておくわ。だけど先導士のためにもう一がんばりしよう。
..と、会話の終了を暗に宣言した。クリコはうつむいたまま堅い表情だ。


..カズヤは心身ともに抜け殻のようになっていた。公園のグラスファイバー製の青い象に腰掛けたままもう1時間もぼーっとしていた。そこは、自宅の最寄駅の線路沿いに設けられた小さな広場だ。正直、ここまでどうやって来たか記憶にない。喫茶店でランチセットを一気に、まるで飲み込むようにして咽た覚えがある。あとは電車の窓外を流れる代わり映えしない風景だ。そして、改札を出て歩き始めてすぐに広場が目に入った。一組の親子がブランコに興じていた。惹かれるように進入したカズヤは象の背にまたがった。陽は大きく傾いた。<叔父さんに連絡しなくちゃ>そんな思いが湧くのだが体が行動をおこさない。<とにかく計算しておこう>ようやく、そう思い立った。スマホを取り出す。コウイチの分として7000円、3000円を自分用に買った。それが手持ちの全てだった。
..配当は、コウイチ
.......17,179,400円
..カズヤ
....... 7,362,600円
コウイチ:カズヤ君じゃないか?
..少し翳り始めた木立ちの脇に立った影が呼んだ。
コウイチ:やっぱそうだ。なにしてるんだ?こんなとこで。
..コウイチが近づいてきた。
カズヤ:ああ、おじさん…おじさんこそ…
コウイチ:池袋に用があって来てたからな。キミに借金したままじゃ悪いと思って家へ行くところだったんだよ。ちょうどよかった。
..言いながら、内ポケットから封筒を取り出した。
コウイチ:七千円入ってる。
..カズヤに差し出した。カズヤは「ああ」と財布を出し、
カズヤ:これが馬券です。
..封筒と交換した。
コウイチ:へー、馬券ってこんなモノなのかー。
..コウイチはしげしげと見ている。
カズヤ:当たっています。
..コウイチは裏までひっくり返して眺めていた。
コウイチ:え?
カズヤ:それ、当たっています。
..コウイチの表情が変わった。目を見開き、まるで怒っているかのようだ。
コウイチ:当たってる?で、百万くらいあるのか?
カズヤ:いえ…1700万円です。
..馬券から目を離し、コウイチはカズヤを睨みつけた。
コウイチ:千…?
カズヤ:はい。1700万と少しです。
コウイチ:センナナヒャク…本当に?
カズヤ:はい。
..コウイチはもう一度馬券を見つめる。
コウイチ:うそだろ…
..それから別れるまでにコウイチは何度「うそだろー」を言ったか、数知れない。話し合いの結果、あす午前10時に渋谷駅で待ち合わせ、払い戻しにいっしょに行くことにした。明日換金しておかないと、ウィンズの払い戻しは週末の開催日までできない。それまでコウイチは待てないし、カズヤは午前だけなら有給を取っても差し支えなさそうだ。百万円束が17個入るバッグを用意するように言って、
カズヤ:とにかく、馬券をなくさないよう気をつけてくださいね。それが無ければ全てがパアですから。
..念を押した。コウイチは頭を振って頷く。馬券を見つめ「うそだろ」と漏らし時折り唸るだけで、ほとんど無口になっていた。
カズヤ:それから、今回の事は誰にも内緒にしてください。特にウチの家族には。ぼくは無関係でお願いします。
コウイチ:なんでだか分からないけど、それでいいのか?それで、これ、本当に1700万なんだな?嘘じゃないよな?
カズヤ:本当に当たっています。絶対ですから安心してください。この情報は、もともと叔父さんが手に入れたんだからぼくは関係ありません。ぼくのことは内緒でお願いします。
コウイチ:判った。助かったー!家も抵当に取られてたんだ。本当に助かった!
..初めてコウイチの顔が輝いた。公園の照明が灯り、二人はそこで別れた。
..帰ったカズヤはビールとコップを持って部屋に籠もった。できるだけ誰とも話さないよう避けたのだ。口を開くと今日の出来事が勝手に飛び出してきそうで怖かった。<なんと言ってもオレは小市民だからな>自分に確認するように言い聞かす。ただコウイチに馬券を渡した事で、かなり吹っ切れていた。嵐の翌日くらいまでに気分は落ち着いてきたのを感じる。つまみも無しでぼんやり飲んでいると、
カナメ :どこ行ってたの。デート?
..カナメが入ってきた。
カズヤ:ちょっとな。
カナメ :あのね、たいへんだよ。コウイチ叔父さん、もうお金の心配ないって電話あったよ。
カズヤ:ふ---ん、そ--か。よかったな。
カナメ :なによ、もっと驚くと思ったのに。でも、どうしたんだろーね?銀行でも貸してくれなかったのにね。まさか…銀行強盗したんじゃないよね!?
カズヤ:おまえな、バカ言うんじゃねぇ!
カナメ :だって…二千万もどうやって作るのよ。
カズヤ:ま、なんにしたって良かったじゃん。これでシュンスケも安心だし。
カナメ :うん。そうだよね。でね、今日がんばって墨入れを完成したよ。
..カナメはハトロン紙で被った物を出した。漫画の原稿だ。
カズヤ:できたのか?
..カズヤはティッシュで手を拭いて受け取ると読み始めた。ギャグにあふれた学園ものだ。例に漏れず、やはり教師がコケにされている。すぐに読み終わった。途中思わず吹いてしまった。
カズヤ:いいじゃねー。おもしろいぜ!
カナメ :ほんと!いけそう?
カズヤ:ああ、オレはいいと思う。
カナメ :じゃ、あしたお昼に送ろうっと。学校の近くの郵便局で。それでね、もしいい作品なら出版社に紹介してくれることもあるんだって!
.. そして夕食後サオリから電話があった。
カズヤ:ゆうべ(昨夜)はごめん。結婚祝賀会ですっかりできあがってた。なにを話したのか憶えてないんだ。
サオリ :そのようだったわね。だから憶えてないと思うけど、会社辞めたのよ。
カズヤ:えっ、そうなの?
サオリ :だれかが世話するしかないから仕方ないわ。落ち着いたらパートていどの仕事を探すと思う。
..母親は結局脳梗塞だった。ただ、一時は危ぶまれたが、右手にわずかに後遺症がある程度で順調に回復しているという。
カズヤ:そうか。じゃ、元来の持病が起きたわけじゃないんだ。
..カズヤはクミコから得た「風土病」の件でさぐりを入れる。
サオリ :あれ?わたし母に持病がある事話したっけ?
カズヤ:聞いたよ。博物館に行った日ラーメンたべながら。
サオリ :そうだった?でも今回はそれとは関係ないみたい。
カズヤ:そーなんだ。けど、持病もいつおきてもおかしくないんだよね。
サオリ :う--ん、今まではだいたい10年おき。だから、そろそろ危ないかなーって…
カズヤ:だけど、医学はどんどん進歩しているから10年前とでは状況が違うんじゃない?お医者さんは 何か言ってない?
サオリ :
カズヤ:例えば薬が開発されたとか。
サオリ :…特に聞いてないけど、もし直るものなら嬉しいけど、それがものすごくお金が要って、現実に無理ならよ…むしろ聞かない方が良かったとも思うし…
カズヤ:…そう…<やっぱ、クミコの言うとおりなのかな?>
..病院内の公衆電話からなので余り長話はできない。
サオリ :でも、とりあえずは順調に回復してるので安心してください。ちょっと簡単には会えなくなっちゃたけど。
カズヤ:スマホはもう無理だな、これだけ待ってもでてこないんじゃ。やっぱりぼくが買うよ。連絡つかないと不便だし、なんと言ってもつまんないから。
サオリ :できるだけ早く自分でなんとかするから心配しないで。
カズヤ:今度の日曜に会えないかな、ぼくがそっちに行くよ。ああ、それからこの前選んでもらった服ね、妹に好評だったよ。
..電話を切ってしばらく考え込んだ<あした換金する。およそ700万円。で、サオリの母の600万円…どうする?>そして現金用に小さなバッグを用意した。
..翌月曜日、いつもどおり出勤を装って家を出た。9時半までに渋谷に着けばいい。会社に電話を入れた。親戚の叔父が急遽田舎から上京するのでその迎えということにした。それなら万が一コウイチと一緒の所を目撃されても言い訳がたつ。そして渋谷に向かった。電車の中で心を占めているのは、サオリに600万円渡すかどうか、だ。かなり迷いがある。なんといっても大金だ。もし、サオリと結婚の約束までしてるのなら、多分迷いはないだろう。だが現実には、そんなに長くも深くもない付き合いだ。<どうしたもんだろー>サオリには頼る宛てなどおそらくないだろう。それにこのまま付き合いは続けたいし、心のどこかに「結婚」が芽生えているのは事実だ。
..9時40分コウイチが来た。いつもと変わりなく見えたが、話してみるとかなり興奮しているのが感じられた。
コウイチ:本当なんだよな?夢じゃないよな?
..実は、カズヤも同じだった。ゆうべベッドに入ってから<現実なのか?>とスマホでJRAを呼び出しレース結果を何度も確かめたのだ。そして<間違いない。本当だ。現実だ>と自分に言いきかせた。するとやはり興奮して寝付けなかった。ウィンズまでの道のり二人は無口だった。カズヤには疑問が残っている。<これは単なる偶然の産物か?「使徒」を願う余り良い様に勘違いしただけでは?それとも、やはり「使徒」なのか?>ウィンズで事務所の隅に通された。緊張して待たされているとコウイチが言った。
コウイチ:キミへの礼をしなくちゃな。普通どれくらいなんだ?
カズヤ:いや、いいですよ。だって、2000万には足りないんだし…
コウイチ:そうはいかんよ。駆けずり回ってある程度は調達できた。会社は大丈夫だ。1割じゃ少ないかな?
カズヤ:ほんとにいいですって。
..そこへ職員がダンボールを抱えてきた。100万円の束がそれぞれの前に積まれ端数分は封筒で渡された。職員が確認するように言った。氏名など書類を書かされたり捺印をするのかと思ったが、なんの手続きもなかった。バッグに詰めると途中まで警備員がついてきた。外へ出るとさすがに緊張する。コウイチがタクシーを拾った。カズヤの会社の前で停まった時コウイチはバッグから二束を取り出しカズヤに押し付けた。
コウイチ:世話になった。お陰で窮地を脱したよ。これ、取っておいてくれ。
..カズヤは辞退した。が、結局押し付けられ受け取ってしまった。カズヤの小さなバッグに936万円が納まった。もう昼だ。コンビニで弁当を買って会社に入った。机の下にガラクタ入れのダンボールがある。そこへバッグを押し込み資料の本を重しに乗せた。昼食を摂っているとふいにタケシが思い起こされた。<しまった。忘れてたー!>だが考えてみれば、ひどくあせって急いでいたし、現金の手持ちもなかった。ATMを捜したり連絡をいれたりする余裕などはなかったのだ。食べ終わるまでに<今回の事は、一切内緒にしよう>と腹をくくった。いつか、何十年も経ったら「話のタネ」にして笑えるかもしれない。
..その晩帰宅すると、
ハハ :ね、ね、聞いた?コウイチ叔父さんね、お金の都合ついたって連絡があったよ。
..母親は心底安堵していた。夕食の間機嫌よく口数が多かった。
ハハ :よかったわねー。ほんと、安心したわ。でも、どうやって工面したのかしらねー。まさか高利のアブナイお金じゃないでしょうね。
カズヤ:それは無い。心配ないって。付き合いが広いから、それなりにツテがあるんだろうから。
ハハ :そーかねー。でも、ここを乗り切れば後は手があるって言ってたから、前のようにいくといいね。
カズヤ:ああ、きっとそうなるさ。
..バッグは衣装タンスの隅に置き衣類で被った。サオリからの電話はなかった。そして例によってカナメが部屋に来た。
カナメ :出してきたよ。出版社から電話がきて、すぐに原稿描けっていわれたらどうしょう!
カズヤ:そんな旨い話し無いから大丈夫だ。
カナメ :いま、忙しいのよねー!仮病使おうかな。
..相変わらずのカナメだ。そしてカズヤは閃いた。
カズヤ:あのなー、この前の歴史暗記、靴箱に入れたの誰か分かったか?
..それが生徒と判明すれば、今回の件は「使徒」の可能性は低い。つまりカズヤの幸運な勘違いという事だ。
カナメ :ううん。分かんない。皆な知らないって。靴箱間違えたのかな?
..「人ごみに…」が生徒でないとすると、「使徒」の可能性が高くなる。と言うより、それしか可能性がない事になる。そうならば、保険会社の誕生プレゼントが「馬券予想」だという奇妙な出来事も納得できる。<決まりだな。でもどうしてこんな回りくどい方法を採ったんだ?>
カナメ :ね、その時はベタ塗りや消しゴムくらい手伝ってよ。
..カナメはまだ言っている。そしてクミコから電話があった。今週の土曜日にサオリの所へ行ってみると言う。
クミコ :簡単に会えなくなって、寂しいんじゃありません?でも、その方が想いが募るかも。
..そしてくふっと笑った。
クミコ :もしかして、「結婚…」なんて考えてます?
..なんと返事したものかカズヤは躊躇した。
カズヤ:そう言うクミコさんこそお相手は?
クミコ :わたし大好きな大事なヒトがいます。お互い成就するといいですね。
..木曜日の晩タケシから電話があった。
タケシ :用はないんだけど、久しぶりだからどうしてるかと思ってな。会社じゃゆっくり話しはできないから。どうだ、デートしてんのか?
..カズヤはちょっとうしろめたい。自分だけ大金を稼いだとは言えない。サオリの母親の事、会社を辞め柏に帰った事を話した。
タケシ :そーか、看病か。それじゃ、なかなか会えないなー。ところでこの前は「お告げ」は無しか?
カズヤ:ああ、ない。
..ちょっとだけ血圧が上がる。
カズヤ:やっぱりもう終わったんだよ。「来るかもしれない」と待つのも意外と疲れるから、もう待たない。そう割り切る事にした。
タケシ :そーか…でもな、たしか「トシシユン」だって3回仙人が来たんだぞ。
カズヤ:トシシュン?あの芥川の「杜子春」か?
タケシ :ああ。最近な、カズはまるで杜子春だなって思ったんだ。だからって訳じゃないけど、3回目があるさ。三度目の正直って言葉もあるし。
カズヤ:あの話しさ、最後はどうなるんだっけ?
タケシ :確か、仙人に高山の上に連れて行かれなにがあっても声を立てるなって言われるんだよな。虎や悪竜が現れたりしても地獄の獄卒に刺されても黙っていたんだけど、鬼に打擲(ちょうちゃく)されても子どもを想う親を見て思わず叫んでしまう、そんなんじゃなかったかな。
カズヤ:それで杜子春は世俗を捨て仙人になる決心をする。ほら、やっぱり3度目のお宝はないじゃないか。
タケシ :それは、彼には仙人たる素養があったからさ。カズはりっぱに凡人だから現世欲にまみれていいんだよ。
カズヤ:どうせオレは小市民だよ。
..二人同時に哄笑した。<悪いな。3回目あったんだよ。オレは悟りを望まず、物欲を優先した>この時は気づかなかったが、カズヤの心境が微妙に変化したのはまさにこの時だった。それを後に知る。そして眠りに着く前にタンスのバッグを開けてみた。そこには、確かに9つの札束と封筒が鎮座ましましていた。
..金曜日、仕事で熱くなっていると、社長室から戻った課長に呼ばれた。
カチョ:キミ、数学得意だったよな?
カズヤ:は?得意ってほどでもないですが…
..課長によると、社長の中学生の息子が来週に模試だという。塾でもらった過去問をやっているのだが、数学がイマイチなのだ。それで日曜日に2時間ほどみてやってくれないかという話しだった。
カズヤ:えー!…
..日曜日はサオリに会いに柏へ行く予定だ。
カチョ:なんか予定でも…?
カズヤ:はあ、人に会う…約束が…
..そして課長は小声になって囁いた。社長に恩を売っておいて、損になることは絶対にない。むしろこちらからお願いしたいくらいのチャンスだぞ。こんな機会を逃すヤツがあるか。諄々と説得が続いた。どうやら課長は勝手に快諾してきたらしい。結局ひきうけざるを得なかった。社長室に同行し挨拶をするともう後には引けない。
..弁当販売のおばちゃんのおにぎりをほうばりながら予定変更を考えていた。第一はサオリにキャンセルの連絡をしなければならない。カナメの宿題に中学からときどき付き合っている。だから家庭教師は、たいして問題はないが、図形問題だけは間があくと閃きが鈍る。それをこれまでの経験で知っている。<図形の定義や定理、ざっと見直しておくか>コウイチ叔父はあれから連絡がない。が、だから却って安心している。<きっと片がついたのだろう>考えていると、いま未解決の問題はサオリの母の件だと分かってきた。それだけが、指のどこかに間違いなく刺さっているが見えないトゲのような存在だ。そしてクミコが土曜にサオリの所へ行くと言っていたのを思い出した。
..おにぎりを押し込むと屋上へ急いだ。クミコも昼休み中だろう。カズヤは、サオリの母親の事をもう一度確認したかった。クミコの情報には多少の進展があった。
クミコ :それでね、とにかく早いほうがいいんですって。
..ワクチンは年齢が若いほど効果があるという。歳をとるほど効果が期待できなくなる。
クミコ :それにね、サオリが胎内感染してないか一緒に血液検査した方がいいと言われたの。感染していれば同じタイプだから同じワクチンでいいし、若いから完治する可能性が高いって。
カズヤ:じゃ、二人なら料金も倍になるのかなー?
クミコ :いえ、血液検査してワクチンの量を増やすだけだから100万円上がるだけ、ということですよ。サオリは自分もいつか発病するんじゃないかと、きっとかなり不安なんです。…ましてお母さんの闘病の姿を見てきているからつらいでしょうね。…だけど、ちょっとやそっとでどうなる金額じゃないですし…かわいそう。
..話しを聞いていると、カズヤの思考回路でサオリと苦しむ親を見る「杜子春」が重なっていった。
..その晩サオリから電話がはいった。一日中病院についていなくてもよくなり、多少は自分の時間も持てる余裕がでてきたらしい。カズヤは家庭教師の件を話した。
カズヤ:ごめんね。そんな訳で日曜ダメになっちゃった。で、どうなの?サオリちゃんは元気なの?
サオリ :わたしは元気よ。社長の頼みじゃしょうがないわよ。がんばってください。その分きっといい事があるわ。電車でもそんなに遠いわけじゃないし、お母さんが回復していけば私も自由がきくようになるから、そうなればいつでも会えるわ。
カズヤ:うん。そうだよね。
..終わって物思いに耽っていると一つの疑問がふわりと浮かんだ。<杜子春って、「杜」が姓で「子春」が名だよな?すると女の子じゃねえ?>これは意外な発見だった。そしてカズヤは「杜子春」を女の子として物語を最初から辿ってみた。すると一層やるせなく切なく感じる。どれくらいぼーっとしていたか、いきなり立ち上がるとスマホを取った。
カズヤ:クミコさん、あした電車に乗る前に会ってください。ジャイアントパンダの像で待っています。







オペレーション「トシシュン」(4)へ続く






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