レイカ:…助手ねー…
..実は、その話しは二度目だ。だいぶん以前にも全く同じ事を訊かれた覚えがある。
レイカ:なにも、わたしの助手でなくても、転送管理士の仕事ならいくらでもあるわよ。
..以前にもそう答えたはずだ。現在の移動は、昔ながらの航空機も飛んでいるが、より早い「転送」が一般的だ。空間移動で、東京パリなら5分で移動できる。人だけではなく、物流も「転送」が使用されている。世界中に転送拠点が設置され、10分以内には拠点から拠点に移送できる。だから長距離の自動車輸送は無くなった。これらは民間企業に委託されているが、「転送」には専門の「転送管理士」が要る。先導士や研究者の道をあきらめた者、あるいはもっと楽な道を選んだ者達はほとんどそこに進む。高給だし、その仕事ならいくらでもある。
..だが、一般社会に開放されているのは「空間移動」だけだ。「時間移動」は、許可されないどころか実績の公表すらない。時間移動を悪用する危険性は、計り知れなく大きい。過去を全てひっくり返す危険を孕んでいる。その上歴史の変更が、人為的に際限なく繰り返し引き起こされる可能性がある。だから「時間移動」が可能なのは世界で唯一、この「高度異時空間研究機関」のみで、「地球連合」の極めて厳重な管理下に
置かれているし、移動に関わる研究論文は一切公表されない。完璧な機密事項なのだ。したがって「異時空間先導士」の社会的地位は、きわめて高いのだ。
クリコ:助手が無理なら、秘書でもなんでもいいんですけど…
..たしかにレイカは忙しいが、今までに助手や秘書など人手の必要性を考えたことがない。レイカの行動予定などの管理は「カーサン」が自動的に組んでくれるし、考えている事を「トーサン」に呟いておけば自分の考えを整理しておいてくれる。つまり、なまじっか人手に頼るより機能的だし面倒がないのだ。<助手…今日の目的は、それだったの?>
イチロー:お姉ちゃん先生さ、どこでも、おお昔でも行けるんだよね?いいなー。
レイカ:どうして?どこか行きたいとこがあるの?
イチロー:あのね、恐竜の卵がほしいんだ。
レイカ:恐竜の卵?
イチロー:うん。そしたら育ててペットにするんだ。
レイカ:ペットねー。
..思わず笑ってしまった。
レイカ:だけどね、それ、ちょっと無理だと思うわよ。
イチロー:どうして?
..以前に日本狼のDNAを研究のために運んだ事がある。だが、予測されたとおり結果はうまくいかなかった。モノには、それを構成する物質による「固有時間」がある。岩石・金属などは数百億年と長いが、特に生命体はせいぜい100年だ。つまり100年以上未来へ運ぶと時間的齟齬が生ずる。従って生きながらえる生命力がない。それは、理論計算と一致する事を証明しただけに終わった。
レイカ:その訳はね、あとでクリコお姉さんから訊いてね。
..レイカはそろそろイチローから解放されたかった。クリコを振り返り、
レイカ:助手の事は考えておくわ。だけど先導士のためにもう一がんばりしよう。
..と、会話の終了を暗に宣言した。クリコはうつむいたまま堅い表情だ。
..カズヤは心身ともに抜け殻のようになっていた。公園のグラスファイバー製の青い象に腰掛けたままもう1時間もぼーっとしていた。そこは、自宅の最寄駅の線路沿いに設けられた小さな広場だ。正直、ここまでどうやって来たか記憶にない。喫茶店でランチセットを一気に、まるで飲み込むようにして咽た覚えがある。あとは電車の窓外を流れる代わり映えしない風景だ。そして、改札を出て歩き始めてすぐに広場が目に入った。一組の親子がブランコに興じていた。惹かれるように進入したカズヤは象の背にまたがった。陽は大きく傾いた。<叔父さんに連絡しなくちゃ>そんな思いが湧くのだが体が行動をおこさない。<とにかく計算しておこう>ようやく、そう思い立った。スマホを取り出す。コウイチの分として7000円、3000円を自分用に買った。それが手持ちの全てだった。
..配当は、コウイチ
.......17,179,400円
..カズヤ
....... 7,362,600円
コウイチ:カズヤ君じゃないか?
..少し翳り始めた木立ちの脇に立った影が呼んだ。
コウイチ:やっぱそうだ。なにしてるんだ?こんなとこで。
..コウイチが近づいてきた。
カズヤ:ああ、おじさん…おじさんこそ…
コウイチ:池袋に用があって来てたからな。キミに借金したままじゃ悪いと思って家へ行くところだったんだよ。ちょうどよかった。
..言いながら、内ポケットから封筒を取り出した。
コウイチ:七千円入ってる。
..カズヤに差し出した。カズヤは「ああ」と財布を出し、
カズヤ:これが馬券です。
..封筒と交換した。
コウイチ:へー、馬券ってこんなモノなのかー。
..コウイチはしげしげと見ている。
カズヤ:当たっています。
..コウイチは裏までひっくり返して眺めていた。
コウイチ:え?
カズヤ:それ、当たっています。
..コウイチの表情が変わった。目を見開き、まるで怒っているかのようだ。
コウイチ:当たってる?で、百万くらいあるのか?
カズヤ:いえ…1700万円です。
..馬券から目を離し、コウイチはカズヤを睨みつけた。
コウイチ:千…?
カズヤ:はい。1700万と少しです。
コウイチ:センナナヒャク…本当に?
カズヤ:はい。
..コウイチはもう一度馬券を見つめる。
コウイチ:うそだろ…
..それから別れるまでにコウイチは何度「うそだろー」を言ったか、数知れない。話し合いの結果、あす午前10時に渋谷駅で待ち合わせ、払い戻しにいっしょに行くことにした。明日換金しておかないと、ウィンズの払い戻しは週末の開催日までできない。それまでコウイチは待てないし、カズヤは午前だけなら有給を取っても差し支えなさそうだ。百万円束が17個入るバッグを用意するように言って、
カズヤ:とにかく、馬券をなくさないよう気をつけてくださいね。それが無ければ全てがパアですから。
..念を押した。コウイチは頭を振って頷く。馬券を見つめ「うそだろ」と漏らし時折り唸るだけで、ほとんど無口になっていた。
カズヤ:それから、今回の事は誰にも内緒にしてください。特にウチの家族には。ぼくは無関係でお願いします。
コウイチ:なんでだか分からないけど、それでいいのか?それで、これ、本当に1700万なんだな?嘘じゃないよな?
カズヤ:本当に当たっています。絶対ですから安心してください。この情報は、もともと叔父さんが手に入れたんだからぼくは関係ありません。ぼくのことは内緒でお願いします。
コウイチ:判った。助かったー!家も抵当に取られてたんだ。本当に助かった!
..初めてコウイチの顔が輝いた。公園の照明が灯り、二人はそこで別れた。
..帰ったカズヤはビールとコップを持って部屋に籠もった。できるだけ誰とも話さないよう避けたのだ。口を開くと今日の出来事が勝手に飛び出してきそうで怖かった。<なんと言ってもオレは小市民だからな>自分に確認するように言い聞かす。ただコウイチに馬券を渡した事で、かなり吹っ切れていた。嵐の翌日くらいまでに気分は落ち着いてきたのを感じる。つまみも無しでぼんやり飲んでいると、
カナメ :どこ行ってたの。デート?
..カナメが入ってきた。
カズヤ:ちょっとな。
カナメ :あのね、たいへんだよ。コウイチ叔父さん、もうお金の心配ないって電話あったよ。
カズヤ:ふ---ん、そ--か。よかったな。
カナメ :なによ、もっと驚くと思ったのに。でも、どうしたんだろーね?銀行でも貸してくれなかったのにね。まさか…銀行強盗したんじゃないよね!?
カズヤ:おまえな、バカ言うんじゃねぇ!
カナメ :だって…二千万もどうやって作るのよ。
カズヤ:ま、なんにしたって良かったじゃん。これでシュンスケも安心だし。
カナメ :うん。そうだよね。でね、今日がんばって墨入れを完成したよ。
..カナメはハトロン紙で被った物を出した。漫画の原稿だ。
カズヤ:できたのか?
..カズヤはティッシュで手を拭いて受け取ると読み始めた。ギャグにあふれた学園ものだ。例に漏れず、やはり教師がコケにされている。すぐに読み終わった。途中思わず吹いてしまった。
カズヤ:いいじゃねー。おもしろいぜ!
カナメ :ほんと!いけそう?
カズヤ:ああ、オレはいいと思う。
カナメ :じゃ、あしたお昼に送ろうっと。学校の近くの郵便局で。それでね、もしいい作品なら出版社に紹介してくれることもあるんだって!
.. そして夕食後サオリから電話があった。
カズヤ:ゆうべ(昨夜)はごめん。結婚祝賀会ですっかりできあがってた。なにを話したのか憶えてないんだ。
サオリ :そのようだったわね。だから憶えてないと思うけど、会社辞めたのよ。
カズヤ:えっ、そうなの?
サオリ :だれかが世話するしかないから仕方ないわ。落ち着いたらパートていどの仕事を探すと思う。
..母親は結局脳梗塞だった。ただ、一時は危ぶまれたが、右手にわずかに後遺症がある程度で順調に回復しているという。
カズヤ:そうか。じゃ、元来の持病が起きたわけじゃないんだ。
..カズヤはクミコから得た「風土病」の件でさぐりを入れる。
サオリ :あれ?わたし母に持病がある事話したっけ?
カズヤ:聞いたよ。博物館に行った日ラーメンたべながら。
サオリ :そうだった?でも今回はそれとは関係ないみたい。
カズヤ:そーなんだ。けど、持病もいつおきてもおかしくないんだよね。
サオリ :う--ん、今まではだいたい10年おき。だから、そろそろ危ないかなーって…
カズヤ:だけど、医学はどんどん進歩しているから10年前とでは状況が違うんじゃない?お医者さんは
何か言ってない?
サオリ :…
カズヤ:例えば薬が開発されたとか。
サオリ :…特に聞いてないけど、もし直るものなら嬉しいけど、それがものすごくお金が要って、現実に無理ならよ…むしろ聞かない方が良かったとも思うし…
カズヤ:…そう…<やっぱ、クミコの言うとおりなのかな?>
..病院内の公衆電話からなので余り長話はできない。
サオリ :でも、とりあえずは順調に回復してるので安心してください。ちょっと簡単には会えなくなっちゃたけど。
カズヤ:スマホはもう無理だな、これだけ待ってもでてこないんじゃ。やっぱりぼくが買うよ。連絡つかないと不便だし、なんと言ってもつまんないから。
サオリ :できるだけ早く自分でなんとかするから心配しないで。
カズヤ:今度の日曜に会えないかな、ぼくがそっちに行くよ。ああ、それからこの前選んでもらった服ね、妹に好評だったよ。
..電話を切ってしばらく考え込んだ<あした換金する。およそ700万円。で、サオリの母の600万円…どうする?>そして現金用に小さなバッグを用意した。
..翌月曜日、いつもどおり出勤を装って家を出た。9時半までに渋谷に着けばいい。会社に電話を入れた。親戚の叔父が急遽田舎から上京するのでその迎えということにした。それなら万が一コウイチと一緒の所を目撃されても言い訳がたつ。そして渋谷に向かった。電車の中で心を占めているのは、サオリに600万円渡すかどうか、だ。かなり迷いがある。なんといっても大金だ。もし、サオリと結婚の約束までしてるのなら、多分迷いはないだろう。だが現実には、そんなに長くも深くもない付き合いだ。<どうしたもんだろー>サオリには頼る宛てなどおそらくないだろう。それにこのまま付き合いは続けたいし、心のどこかに「結婚」が芽生えているのは事実だ。
..9時40分コウイチが来た。いつもと変わりなく見えたが、話してみるとかなり興奮しているのが感じられた。
コウイチ:本当なんだよな?夢じゃないよな?
..実は、カズヤも同じだった。ゆうべベッドに入ってから<現実なのか?>とスマホでJRAを呼び出しレース結果を何度も確かめたのだ。そして<間違いない。本当だ。現実だ>と自分に言いきかせた。するとやはり興奮して寝付けなかった。ウィンズまでの道のり二人は無口だった。カズヤには疑問が残っている。<これは単なる偶然の産物か?「使徒」を願う余り良い様に勘違いしただけでは?それとも、やはり「使徒」なのか?>ウィンズで事務所の隅に通された。緊張して待たされているとコウイチが言った。
コウイチ:キミへの礼をしなくちゃな。普通どれくらいなんだ?
カズヤ:いや、いいですよ。だって、2000万には足りないんだし…
コウイチ:そうはいかんよ。駆けずり回ってある程度は調達できた。会社は大丈夫だ。1割じゃ少ないかな?
カズヤ:ほんとにいいですって。
..そこへ職員がダンボールを抱えてきた。100万円の束がそれぞれの前に積まれ端数分は封筒で渡された。職員が確認するように言った。氏名など書類を書かされたり捺印をするのかと思ったが、なんの手続きもなかった。バッグに詰めると途中まで警備員がついてきた。外へ出るとさすがに緊張する。コウイチがタクシーを拾った。カズヤの会社の前で停まった時コウイチはバッグから二束を取り出しカズヤに押し付けた。
コウイチ:世話になった。お陰で窮地を脱したよ。これ、取っておいてくれ。
..カズヤは辞退した。が、結局押し付けられ受け取ってしまった。カズヤの小さなバッグに936万円が納まった。もう昼だ。コンビニで弁当を買って会社に入った。机の下にガラクタ入れのダンボールがある。そこへバッグを押し込み資料の本を重しに乗せた。昼食を摂っているとふいにタケシが思い起こされた。<しまった。忘れてたー!>だが考えてみれば、ひどくあせって急いでいたし、現金の手持ちもなかった。ATMを捜したり連絡をいれたりする余裕などはなかったのだ。食べ終わるまでに<今回の事は、一切内緒にしよう>と腹をくくった。いつか、何十年も経ったら「話のタネ」にして笑えるかもしれない。
..その晩帰宅すると、
ハハ :ね、ね、聞いた?コウイチ叔父さんね、お金の都合ついたって連絡があったよ。
..母親は心底安堵していた。夕食の間機嫌よく口数が多かった。
ハハ :よかったわねー。ほんと、安心したわ。でも、どうやって工面したのかしらねー。まさか高利のアブナイお金じゃないでしょうね。
カズヤ:それは無い。心配ないって。付き合いが広いから、それなりにツテがあるんだろうから。
ハハ :そーかねー。でも、ここを乗り切れば後は手があるって言ってたから、前のようにいくといいね。
カズヤ:ああ、きっとそうなるさ。
..バッグは衣装タンスの隅に置き衣類で被った。サオリからの電話はなかった。そして例によってカナメが部屋に来た。
カナメ :出してきたよ。出版社から電話がきて、すぐに原稿描けっていわれたらどうしょう!
カズヤ:そんな旨い話し無いから大丈夫だ。
カナメ :いま、忙しいのよねー!仮病使おうかな。
..相変わらずのカナメだ。そしてカズヤは閃いた。
カズヤ:あのなー、この前の歴史暗記、靴箱に入れたの誰か分かったか?
..それが生徒と判明すれば、今回の件は「使徒」の可能性は低い。つまりカズヤの幸運な勘違いという事だ。
カナメ :ううん。分かんない。皆な知らないって。靴箱間違えたのかな?
..「人ごみに…」が生徒でないとすると、「使徒」の可能性が高くなる。と言うより、それしか可能性がない事になる。そうならば、保険会社の誕生プレゼントが「馬券予想」だという奇妙な出来事も納得できる。<決まりだな。でもどうしてこんな回りくどい方法を採ったんだ?>
カナメ :ね、その時はベタ塗りや消しゴムくらい手伝ってよ。
..カナメはまだ言っている。そしてクミコから電話があった。今週の土曜日にサオリの所へ行ってみると言う。
クミコ :簡単に会えなくなって、寂しいんじゃありません?でも、その方が想いが募るかも。
..そしてくふっと笑った。
クミコ :もしかして、「結婚…」なんて考えてます?
..なんと返事したものかカズヤは躊躇した。
カズヤ:そう言うクミコさんこそお相手は?
クミコ :わたし大好きな大事なヒトがいます。お互い成就するといいですね。
..木曜日の晩タケシから電話があった。
タケシ :用はないんだけど、久しぶりだからどうしてるかと思ってな。会社じゃゆっくり話しはできないから。どうだ、デートしてんのか?
..カズヤはちょっとうしろめたい。自分だけ大金を稼いだとは言えない。サオリの母親の事、会社を辞め柏に帰った事を話した。
タケシ :そーか、看病か。それじゃ、なかなか会えないなー。ところでこの前は「お告げ」は無しか?
カズヤ:ああ、ない。
..ちょっとだけ血圧が上がる。
カズヤ:やっぱりもう終わったんだよ。「来るかもしれない」と待つのも意外と疲れるから、もう待たない。そう割り切る事にした。
タケシ :そーか…でもな、たしか「トシシユン」だって3回仙人が来たんだぞ。
カズヤ:トシシュン?あの芥川の「杜子春」か?
タケシ :ああ。最近な、カズはまるで杜子春だなって思ったんだ。だからって訳じゃないけど、3回目があるさ。三度目の正直って言葉もあるし。
カズヤ:あの話しさ、最後はどうなるんだっけ?
タケシ :確か、仙人に高山の上に連れて行かれなにがあっても声を立てるなって言われるんだよな。虎や悪竜が現れたりしても地獄の獄卒に刺されても黙っていたんだけど、鬼に打擲(ちょうちゃく)されても子どもを想う親を見て思わず叫んでしまう、そんなんじゃなかったかな。
カズヤ:それで杜子春は世俗を捨て仙人になる決心をする。ほら、やっぱり3度目のお宝はないじゃないか。
タケシ :それは、彼には仙人たる素養があったからさ。カズはりっぱに凡人だから現世欲にまみれていいんだよ。
カズヤ:どうせオレは小市民だよ。
..二人同時に哄笑した。<悪いな。3回目あったんだよ。オレは悟りを望まず、物欲を優先した>この時は気づかなかったが、カズヤの心境が微妙に変化したのはまさにこの時だった。それを後に知る。そして眠りに着く前にタンスのバッグを開けてみた。そこには、確かに9つの札束と封筒が鎮座ましましていた。
..金曜日、仕事で熱くなっていると、社長室から戻った課長に呼ばれた。
カチョ:キミ、数学得意だったよな?
カズヤ:は?得意ってほどでもないですが…
..課長によると、社長の中学生の息子が来週に模試だという。塾でもらった過去問をやっているのだが、数学がイマイチなのだ。それで日曜日に2時間ほどみてやってくれないかという話しだった。
カズヤ:えー!…
..日曜日はサオリに会いに柏へ行く予定だ。
カチョ:なんか予定でも…?
カズヤ:はあ、人に会う…約束が…
..そして課長は小声になって囁いた。社長に恩を売っておいて、損になることは絶対にない。むしろこちらからお願いしたいくらいのチャンスだぞ。こんな機会を逃すヤツがあるか。諄々と説得が続いた。どうやら課長は勝手に快諾してきたらしい。結局ひきうけざるを得なかった。社長室に同行し挨拶をするともう後には引けない。
..弁当販売のおばちゃんのおにぎりをほうばりながら予定変更を考えていた。第一はサオリにキャンセルの連絡をしなければならない。カナメの宿題に中学からときどき付き合っている。だから家庭教師は、たいして問題はないが、図形問題だけは間があくと閃きが鈍る。それをこれまでの経験で知っている。<図形の定義や定理、ざっと見直しておくか>コウイチ叔父はあれから連絡がない。が、だから却って安心している。<きっと片がついたのだろう>考えていると、いま未解決の問題はサオリの母の件だと分かってきた。それだけが、指のどこかに間違いなく刺さっているが見えないトゲのような存在だ。そしてクミコが土曜にサオリの所へ行くと言っていたのを思い出した。
..おにぎりを押し込むと屋上へ急いだ。クミコも昼休み中だろう。カズヤは、サオリの母親の事をもう一度確認したかった。クミコの情報には多少の進展があった。
クミコ :それでね、とにかく早いほうがいいんですって。
..ワクチンは年齢が若いほど効果があるという。歳をとるほど効果が期待できなくなる。
クミコ :それにね、サオリが胎内感染してないか一緒に血液検査した方がいいと言われたの。感染していれば同じタイプだから同じワクチンでいいし、若いから完治する可能性が高いって。
カズヤ:じゃ、二人なら料金も倍になるのかなー?
クミコ :いえ、血液検査してワクチンの量を増やすだけだから100万円上がるだけ、ということですよ。サオリは自分もいつか発病するんじゃないかと、きっとかなり不安なんです。…ましてお母さんの闘病の姿を見てきているからつらいでしょうね。…だけど、ちょっとやそっとでどうなる金額じゃないですし…かわいそう。
..話しを聞いていると、カズヤの思考回路でサオリと苦しむ親を見る「杜子春」が重なっていった。
..その晩サオリから電話がはいった。一日中病院についていなくてもよくなり、多少は自分の時間も持てる余裕がでてきたらしい。カズヤは家庭教師の件を話した。
カズヤ:ごめんね。そんな訳で日曜ダメになっちゃった。で、どうなの?サオリちゃんは元気なの?
サオリ :わたしは元気よ。社長の頼みじゃしょうがないわよ。がんばってください。その分きっといい事があるわ。電車でもそんなに遠いわけじゃないし、お母さんが回復していけば私も自由がきくようになるから、そうなればいつでも会えるわ。
カズヤ:うん。そうだよね。
..終わって物思いに耽っていると一つの疑問がふわりと浮かんだ。<杜子春って、「杜」が姓で「子春」が名だよな?すると女の子じゃねえ?>これは意外な発見だった。そしてカズヤは「杜子春」を女の子として物語を最初から辿ってみた。すると一層やるせなく切なく感じる。どれくらいぼーっとしていたか、いきなり立ち上がるとスマホを取った。
カズヤ:クミコさん、あした電車に乗る前に会ってください。ジャイアントパンダの像で待っています。
オペレーション「トシシュン」(4)へ続く