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オペレーション”トシシュン”(4)

 
...................................................- Rena エピソードU -
 

星空 いき

Hosizora Iki














....<本文中緑色の部分は、読み飛ばしてもスト−リーに
....影響ありません。興味のない方は飛ばしてください>




.......................................コード資料....称号と範囲


..4月の暖かい土曜日、タケシは横浜の従兄弟を訪ねていた。従兄弟のミツオは45歳で小学校の教員だ。一度も結婚歴がない。それが年老いた母親の悩みだ。母親は元気よく家事もこなしているが、月一の病院がよいは欠かせない。最近ミツオの額が広くなってきたのを見て溜息をついている。
..本棚の本もきちんと整理された、ミツオの部屋で二人はアルバムを見ている。タケシはある写真を手に入れるためにわざわざやって来た。整理に拘るミツオのアルバムの中から一枚の写真を見つけ出すのは、簡単だった。
ミツオ :これだよ。
..ミツオはカバーをはがし、抜き出した。それは一年ほど以前ミツオが婚活パーティに参加したときの物だ。グラスを手にした満面笑みのミツオが写っている。が、ミツオが指したのは、ミツオの陰に横向きの半身が見えている女性だ。距離があっていないせいで少しぼけている。さらに横顔なので正確には掴めないが、20代半ばでまあまあキレイな女性だ。
タケシ :ちょっと分かりにくいなー。これしかないの?
..ミツオによると、彼女は写真が好きでないという事で一枚も撮らせなかった。この写真が残っただけでも奇跡だと言う。やむなくタケシはその写真を借りて帰ったのだが、実は一度だけ本人に会ったことがある。横浜駅近くの路上を歩いていた時、テナントビルの不動産屋から出て来たミツオとばったり出くわした。そしてその時女性同伴だったのだ。そしてなんとなく紹介されたのだが、軽く挨拶を交わしただけだった。後で思うと、女性は紹介されるのも顔を見られのもできるだけ避けていた気がする。それから2ヶ月後事件が起きた。女性が自分でマンションを探して来て、そこに住むのが結婚の条件だと言う。新居用にマンションの購入契約をし、手付金として2000万円支払い残りはローンだ。そして、女性と担当の社員は消えた。警察の話しでは、女性と不動産屋の社員が組んでの詐欺だろうという。が、書類上瑕疵はないし現金詐取の証拠もない。結局ミツオに5000万のローンが残った。
ミツオ :本当はな、そんな写真破いて捨てるつもりだったんだ。だから役に立つことがあるなら結構だし、さらにヤツラが捕まってくれるならなおいいんだけどな。その女に心当たりでも?
タケシ :いや、そういう訳じゃ無い。ただちょっと気になるもんだから…
..タケシは写真を手帳に挟んで帰りその晩カズヤに電話した。
..そして翌日曜日カズヤとタケシは「なでしこ」で渋い顔で向き合っていた。タケシは例によってウィンズの帰りだが、カズヤは呼び出されて直截ここに来た。店に入るといきなり、
タケシ :おい、この前のサオリちゃんの写真見せろ。
..スマホを出しタケシに渡すと一枚の写真でタケシの動きが止まった。そして食い入るように見ている。
カズヤ:どうしたっていうんだよ?
..タケシは手帳から写真を取り出すとテーブルに置いた。
カズヤ:なんだよ?
タケシ :その女性見てくれ。クミコさんに似てないか?
カズヤ:えっ…?
..カズヤは写真を手に取る。
カズヤ:似てるかって言えば似てるかも…でも、この写真じゃなんとも言えないなー。ちょっと離れれば若い女性は皆な似てるからなー。
タケシ :いや、な、前に写真を初めて見たときから気になっていたんだよ。
..そう言えば以前にこの店でサオリの写真を見せた。その時ひどく熱心に見ていたが、サオリじゃなくクミコを見てたのか?
カズヤ:で、似てると何か問題なのか?
タケシ :うーn、その前にカズ、もしかしてクミコさんに金を渡したことはないか。ある程度纏まった金額を。
カズヤ:う…あげたんじゃなく、預けた。
..「お告げ」に依って大当たりしたのは10日ほど前だ。そのとき柏のサオリに会いに行くというクミコにカズヤは上野駅で荷物を託した。小さなダンボール箱をできるだけ綺麗な包装紙でくるみ100均で見つけたリボンの花を貼り付けた。
クミコ :これをサオリに渡せばいいんですね?愛のメッセンジャーですね。
..中味は700万円の札束だ。これでワクチンを手に入れ、サオリと母親の「風土病」を治して欲しいと書いた手紙も入れた。
カズヤ:はい。お願いします。陣中見舞いというか、ささやかなプレゼントです。
..それは土曜日午前だったが、その後は家庭教師に神経と時間を取られた。だが、月曜の夜になってもサオリからの電話がない。3日も経つとさすがに不安になった。そしてクミコに電話した。繋がらない。何度試しても無駄だった。会社に連絡してみたが、退職したと言う。お手上げ状態になったところ昨日タケシから連絡が来た。
タケシ :今度日曜どうする?
カズヤ:桜花賞だな。やめとくよ。タケは馬場か?
タケシ :いや、今回は渋谷にしておこうと思ってる。
カズヤ:またポカすんなよ。
タケシ :明日はいただきさ。カズの借金返さなきゃな。
..タケシもいつしか<使徒>の事は言わなくなった。そして明日夕方には必ず「なでしこ」へ来いとタケシが強い口調で言ったのだ。
..そして今ビールを挟んでいるが、二人とも競馬のことなど忘れている。
タケシ :オレに45歳独身の従兄弟がいるんだけどな…
..タケシは語り始めた。できるだけ詳細に詐欺事件を伝えた。タケシの永い話しが終わってもカズヤはなにも言わない。<そうか、タケは最初からそんな事を考えていたんだ。だからマンションのローンを組んでないか訊いたんだ>黙っているとタケシが言った。
タケシ :金を渡したんだな、いくらだ?
..カズヤは目を瞑る。
カズヤ:…200万。サオリちゃんに渡すようクミコさんに預けた。
..本当は700万円だ。だが、そんな金額をいう訳にいかない。
タケシ :200万も!どうして?
カズヤ:病院代が払えそうにない。それどころか今収入がない。…けど、クミコさんは現金だって 事知らないぜ。それに、ただ似てるかもしれないというだけだろ?ちょと似てるだけなら世の中にいくらでもいる。決めつけるなよ。
タケシ :でもよ、二人とも連絡がつかないんだろ。もう決まりだ。やられたんだよ。包装してあっても詐欺師には匂うんだよ。それがプロだ。
カズヤ:じゃ二人はグルだと言うんか?
タケシ :たぶんな。きっと「婚活」専門なんだよ。パーティでおいしそうな獲物を探しマンションや土地の契約させる。おそらく裏で操っているヤツがいるんだろう。
カズヤ:そんな、バカな…
タケシ :じゃ、なんでクミコさんは、突然会社をやめ連絡がつかなくなったんだ?現金を受け取った連絡がサオリちゃんからないんだ?
カズヤ:
..言われればグウの音も出ない。クミコはともかく、サオリからこんなに永く電話一本ないなんて誰が考えてもタケシに分がある。だが仮にタケシの言うとおりだとしても疑問は残る。<なぜ、対象がオレなんだ?一介の平凡なサラリーマンだぞ。資産があるわけでもない。今回たまたま纏まった金を持っていただけで、どう考えても詐欺の対象じゃない。なぜだ?>
カズヤ:タケのいうとおりだとしてよ、タケの従兄弟から、短期間に7000万も騙し取った人間が、200万円のためにそこまでするか?オレは資産家の息子でもない、ただのサラリーマンだぞ。そもそも詐欺の対象に選ばないだろうよ。
タケシ :確かに一貫性はないな。
カズヤ:だろー?だから単に他人の空似。詐欺なんかとは無関係だよ。急に会社を辞め連絡がとれなくなったのは、個人的な問題がなにか発生したからだよ。
タケシ :うーん、そうとは思えないな。なぜサオリちゃんから連絡がない?彼女にとって200万はかなり大金だと思うぜ。
カズヤ:<いや、700万円は誰にとっても大金だ>…この話しは、今夜はここまでにしておこうや。分からない事を言い合ってもどうにもならない。
タケシ :そうだな。
ママ :どうしたのよ、お通夜みたいな顔して。もしかして今日は大負け?
..立て込んでいた客が引き、手のすいたママが声をかけた。
タケシ :お通夜みたいなもんさ。
ママ :あら、どなたか亡くなったの?
タケシ :金(かね)がな。
ママ :カネさん?知り合いのおばあさん?
..店内に客はいない。見渡してカズヤが言った。
カズヤ:例の、しつこい男さ、今日はまだ来てないの?
..ママが椅子に掛ける。
ママ :ううん。断ったの。思い切って「店にもう来ないでください」って。
カズヤ:いつ?
ママ :三日前。
カズヤ:それから来てない?
ママ :ええ。
..カズヤとタケシは顔を見合わせる。
カズヤ:それから変わった出来事は無い?
..三人ともほぼ同じ事を考えていた。
タケシ :危険だなー。
カズヤ:店でも会えないとなると、どんな手にでるか…
ママ :だからね、毎日帰りはタクシーにしてるのよ。タクシーに乗る距離じゃないから運転手さんに「近くてごめんなさい」っていちいちあやまって。それに、これいつも持っているの。
..帯に挟んで下がっているのは非常ブザーだ。U--nn、カズヤとタケシは唸る。タクシーにしろブザーにしろほんの気休めだ。抑止効果はさして期待できない。
タケシ :いよいよと言うときは警察だな。けどそれまでが問題だよな。「可愛さ余って…」で、刃物を持ち出さないとも限らないし…
ママ :こわいこと言わないで。
..カズヤは口をとがらせ天井を睨んでいたが、
カズヤ:じゃー、さー、とりあえず恋人がいることにして、会わせてみたら。
タケシ :恋人か…それも強そうなヤツなら効果ありかな。
ママ :そんなヒト、知り合いにいないわよ。
タケシ :オレたちじゃ若造だから無理だし…年齢が合いそうで迫力のある人間…
..カズヤの脳に一人の人物が浮かんだ。
カズヤ:オレに心当たりがある。
..ママとタケシがカズヤを見つめる。
タケシ :誰か、いるのか?
カズヤ:ああ。
..カズヤはコウイチを思っていた。年齢がいいし、学生の時はラグビーをやっていた。
ママ :そのヒトにわたしの恋人役をやってもらうの?
カズヤ:そうさ。そして「オレの女にちょっかい出すな!」て言ってもらえば、かなり効果があると思うぜ。
..三人は顔を見合わせ頷いた。


レイカ:そんなー!、ほんとうですか?
..レイカは頭の中が真空になった。
レイカ:なぜですか?
..ここはボダイCの部屋だ。今夜のレイカは、パーティに出席していた。United Nations of China(チナ連合国)の大統領主催だ。400年ほど前に崩壊した共産主義国のあとに建国された屈指の大国だ。そして未だ覇権主義に固執している。「時間移動」を自国にも開放しろと強行に迫っている。今回の訪問も第一の目的はそれだ。だから警備も尋常ではない。ケボット(警備ロボット)が3千体動員され、会場にたどりつくまでは、地上にはびっしりとケボットが並び上空は蝙蝠の群れが現れたのかと勘違いするほど監視フライヤーが飛び交っている。大統領は先ほど西暦2000年の自国を視察して戻った。レイカが先導士を務めた。
..そしてパーティ開始のとき、突然ボダイCから戻るように呼び出しをくらった。パーティではレイカの仕事は何もない。残念がる大統領に侘びを言い、パーティドレスのまま急いで機関本部に戻った。そしてそこで聞いた話しに仰天した。昨日の昼クリコの身柄が拘束された。理由は「爆発物送付」と「レイカ襲撃」の事件の容疑者だと言う。機関の警備隊が捜査していた。
レイカ:まさか、彼女が私に殺意を?…信じられません。
C :警察に渡すかどうか、キミの意見もきいてからと思って機関内に軟禁してある。
..同席している警備司令が補足する。
シレイ:二つの事件については警察には報告していません。
C :不自然な事件なのでしばらく様子を見ようと言う事になった。そして密かにキミの警備を強化していたのだ。なにか、恨まれる憶えは?
レイカ:…ありません。それに彼女に恨まれていたなんて、やっぱり信じられません。
..「アケチ」「キンダイチ」は、この機関にもある。それなのに捜査に時間がかかったのは、両者の意見が違ったからだ。犯人を「アケチ」は20歳前後、「キンダイチ」は40歳前後だとしていた。一致しているのは70%の確率で女だということだ。さらに確保されたロボトミーが旧型なので出所を割り出すのに手間取った。ロボトミーは全て登録制だから普通はすぐに調べられる。が、100年以上前の物は登録の対象にならないどころか、存在しているとさえ思われなかった。
シレイ:「キンダイチ」「アケチ」の判断で一致しているもうひとつの点は、これは「社会性事件」ではなく、むしろ恋愛がらみの可能性が高い「個人的事件」だという事です。
C :そこでキミとキミの周辺の女性たちの、最近の異性関係を調べたんだよ。そしてクリコが浮上した。
レイカ:…なぜ?
C :キミは最近人類学研究員のアツシと懇意にしてるそうだね?
レイカ:懇意というほどのことは何もありません。続けて2〜3度レクチャーなどでご一緒しただけです。ああ、そうそう、彼からたまたまコンサートのチケットがあるからと誘われました。でも、その日に襲われて結局行きませんでした。まさかわたしがアツシ研究員と付き合っていると思ってクリコが恨んだ?
C :どうもクリコはアツシに恋愛感情を抱いているらしい。そして、それがキミへの逆恨みになったんじゃないか。今のところ警備隊の担当者はそう考えているんだな?
..Cは司令に問いかけ、背筋を伸ばした司令は「はい」と頷く。
レイカ:わたし、アツシ研究員に対し恋愛感情などありません。で、クリコは何と言ってます?
C :そう、これでようやく本題だ。そのクリコだが、何にもしゃべらんのだよ。昨日身柄確保して以来全く何も話さんので手をやいておる。で、もしかしたらキミになら何か話すかと思って来てもらったんだ。
シレイ:自供剤やポリグラフも随分進化しました。使えば自供を採るのは簡単です。が、許可が厳しいうえ後々まで感情的しこりが残ります。できれば使わなくて済ませたいと考えています。
レイカ:そういうことですかー…
C :どうかね、あすにでも面談してみてくれんかね?
..頼まれるまでもなくレイカとしても詳しく知りたい。さらに誤解されている部分は解きたい。
レイカ:分かりました。会ってみます。
..帰りのμの中でレイカは反芻していた。ここ数日考えたクリコの将来だ。恐らくセンダツにはなんとか手が届くだろう。が、先導士としてはどうか?自信を持って推挙できるとはいえない。それが現実だ。だが、先導士の仕事が全てハイレベルな能力を求められる訳ではない。仕事の中には、ただ要人を安全に送り迎えするだけの事がある。むしろその方が圧倒的に多いのだ。それだけならクリコでも務まる。現職の先導士たちも、仕事内容によっていつしかランクわけが起きている。極めて高度な知能・経験を要する任務専用の先導士から、センダツでなくとも勤まりそうな先導士まで、なんとなく住み分けされているのが現実だ。だからクリコを自分の管理下に置いて軽い仕事専用にすれば、一応先導士が務まるはずだ。<それしかないかな>と最近考えていた。
..そしていま、ボダイCの話しを思い起こす。<そうかな…?>何かが違う。何か違和感を感じる。ボダイCの話しになぜ違和感を感じるのか…考えていると少し展開が違ってきた。宅送小包にしろ襲撃にしろレイカにはモスキートがついている。そうでなくともレイカの行動はほぼ筒抜けだ。つまり、そんな計画がうまくいくはずがないのだ。そしてそれはクリコだってよく分かっているはずだ。<それなのに実行した>違和感の原因はそれだ。<なぜ?>
μ :ゴ自宅到着デス。
..μが告げた。


..「なでしこ」で相談は纏まった。コウイチは代理恋人に決まった。カズヤはコウイチを説得できる勝算があった。コウイチは義に篤い。困っている状況を説明すれば必ず立ち上がってくれると思っている。早いほうがいいと、カズヤはコウイチに電話した。「相談がある」と言うと、月曜に訪問予定だとの返事だ。相談はその時にということになった。
カズヤ:きっとうまくいくよ。
..3人は乾杯した。そこへカズヤのスマホが鳴った。
カズヤ:誰だろ?
..画面を見る。
....サオリ
カズヤ:ん……?なんでだ?!
..登録してあるサオリの電話は無くしたスマホの番号だ。<なのに、なぜ?>とっさに、拾った誰かが掛けたか?と思った。<そんなに電池が持つ?>小混乱の中で電話に出た。
サオリ :カズヤさん!サオリです!
カズヤ:えーっ!どうしたの?スマホ見つかった?
サオリ :カズヤさんでしょ。あなたが見つけたんじゃないの?
カズヤ:え?
..話しがかみ合わない。サオリは今上野に着いた所だと言う。とにかく会おうという事になり池袋で落ち合うことになった。
..タケシは驚いて見つめていた。
タケシ :まさか、サオリちゃんか!
カズヤ:そうだ!とにかく行く!
..カズヤは店を飛び出し駅へ向かう。<なにがどうなってるんだ?>はやる心でサオリを見つけた。ずいぶん久しぶりの気がする。「とりあえず落ち着こう」とサンシャインヘ向かいながら、スマホを見つけた経緯を訊く。
サオリ :ナースセンターでこの紙のバッグを渡されたのよ、お見舞いを預かっているって。カズヤさんが誰かに頼んだのかと思った。
カズヤ:ぼくじゃない。クミコさんかな?
サオリ :でも、クミコなら直截わたしに渡すと思うし、せっかく来たのに会わないで帰るとは思えない。
..ホテルのスイーツのあるレストランに腰を降ろした。
サオリ :永いこと連絡しなくてごめんなさい。じつはね、この前最後に連絡してから大変だったの。あ、その前にこれ…
..サオリは紙バッグを持ち上げ、中から小さなダンボール箱を取り出すとテーブルに置いた。それはカズヤが包装しクミコに依頼した物だ。サオリは声を抑える。
サオリ :びっくりしたわ。だってこんな大金…生まれて初めて見たわ。それで、これは返さなきゃいけないと思って。で、ね、スマホもこのバッグに入っていたのよ。それにどうしてアメリカのワクチンのこと知ってるの?
..いろんな思いが一気に湧いて出るのか、話しに脈絡がない。
カズヤ:どうしてって、クミコさんに聞いたんだよ。
サオリ :そんなはずないわ。だって、わたし、ワクチンの話しを昨日初めてお医者さんにきいたのよ。
カズヤ:えっ!?…ちょっと待って、話しが見えない。整理しようよ。なんか、かなりこんがらかってる。まず、最後の電話は金曜日の晩で、ぼくが家庭教師で日曜に行かれなくなったて言ったんだよね。
サオリ :ええ、そう。
カズヤ:ぼくはその頃もうワクチンの話しはクミコさんに聞いてたよ。そして彼女が土曜にサオリちゃんに会いに行くというので、土曜の午前に上野でそのバッグ預けたんだよ。で、土日は家庭教師でほとんど潰れて何もしなかったんだ。
サオリ :えー、でもクミコにワクチンのこと話したことないのよ…わたしだって聞いてないのだから…
カズヤ:取りあえずその事は置いておこうよ。それから月曜になっても連絡がないから、クミコさんどうしたのかなと思って火曜に電話したけど繋がらなくて、会社に掛けたら退職したって聞いたんだ。だから、このプレゼントどうなったかずっと気になっていたんだけど、サオリちゃんから連絡ないし…
サオリ :ごめんなさい。そのころ大変だったの。そのころには母もかなり回復して、やっとでやれやれと思っていたんだけれど、日曜に突然持病の発作がでたの。一旦発作が起こると大変なの。個室に隔離して、明かりがダメなのね。だから窓は暗幕で覆うの。看護師さんやわたしたちは、懐中電灯を赤いセロハンで被った灯りだけで作業しなければいけないのよ。とにかく、光りも音もダメで一日ついてなくちゃならないの。もう、こっちがダウンしそうだった。それで最近ようやく少し良くなって来た所なのよ。お医者さんもネットなんかでいろいろ調べてみたらしく、昨日になって、アメリカで特定の地域によく似た症例があり、ワクチンがあると教えてくれたの。でも、クミコに話してないし、どういうことなんだろうて、あなたの手紙を見て不思議だったわ。
カズヤ:ふーん…クミコさんの話しはもっと詳しくて、ワクチン二人分だと700万円いるって…
サオリ :どういうことなのかしら。
カズヤ:わからない。で、今日は出てもいいのかい?
サオリ :叔母さん、母の妹さんを頼んできょうあす付いていてもらうことにしたからだいじょうぶよ。
カズヤ:とにかく、これは治療費に取ってほしい。
..カズヤは箱を押し戻す。
サオリ :でも…こんな大金…いったいどうしたの?
..カズヤは天井を見る。ややあって言った。
カズヤ:絶対内緒にできる?
..サオリは目を大きくしてカズヤを見つめる。
カズヤ:本当に自分の中にだけしまっておけるなら訳を話すけど。
..サオリが頷いた。
カズヤ:じゃ、約束だ。絶対誰にも話さないね。
..もう一度サオリが頷く。そしてカズヤは、不必要な部分を削ってコウイチとカナメの事を話した。
カズヤ:そんな訳さ。だからもしかしたら、これは神様が初めからキミに渡す予定でぼくに当てさせたんだ。これは、治療のために天から下された物さ。サオリちゃんも検査をして治してほしい。いまここで返されて受け取ってしまうと、ぼくはこの先一生その事を負い目に生きていかなけばならなくなる。今は、病気を治す事だけを考えてほしい。
..サオリは俯いた。肩が小刻みに震えてる。カズヤは箱をさらに押した。
カズヤ:さ、もう片付けて。
サオリ :迷惑かけてごめんなさい。ほんとにいいの?
..サオリは目頭をぬぐった。
カズヤ:ああ。結局クミコさんに問い質さないと本当のとこは分からない。どこへ行ってしまったのかなー?彼女が退社するって知ってた?
サオリ :ううん、ぜんぜん。とつぜん電話が繋がらなくなったのでどうしたんだろーって思った。でもねー、彼女もいろいろあるみたいなの。
カズヤ:いろいろって?
サオリ :彼女、臨時の契約社員なの。だからいつ辞めてもおかしくないんだけど個人的な悩みを抱えているらしくて…恋愛問題で…
カズヤ:そういえば、大好きで大事なヒトがいるって言ってたな。もしかして、不倫とか?
サオリ :そんなんじゃないけど…もっと特殊な状況で…「一緒になれないなら、いっそ死んだほうがいい」って…
カズヤ:<…!>
サオリ :ところがね、そのヒトはクミコが全然眼中にないらしく…クミコ、泣いてた。
カズヤ:なんだか分からないけど、クミコさんて不思議が多いねー。
サオリ :あなただって…競馬にワクチン…もしかして予知能力者?
カズヤ:まさか。
..同時に笑った。そしてレストランを後にした。もう10時だ。
カズヤ:すっかり遅くなってしまったね。どうする?
サオリ :わたし今夜泊まるつもりで来たから…
カズヤ:じゃ、部屋をとろうか。
..カズヤはフロントへ向かう。
サオリ :あ……いっしょ……一緒の部屋でもいいのよ…。
..カズヤは帰るつもりでいた。が、歩を止めるとすこし遅れて来るサオリを見つめた。
カズヤ:…いいの?
..サオリはうなずいた。


..クリコは、機関内部に軟禁されている。が、生活は以前とほとんど変わりない。違いと言えば、部屋の入口にケイボ2体が立っているのと、廊下や窓の外で「蚊がいるな」と感じるくらいだ。そのささやかな変化には気づかない者もいる。クリコは外出は自由だが、必ずケイボ1体とモスキートがついてくる。だから軟禁というのは適切ではない。「監視付き」というのが正しいかもしれない。
レイカ:ほんとうにあなたがやったの?わたしには信じられないんだけど。
..その部屋でレイカとクリコが向かい合ってソフアーに掛けている。クリコは俯いて黙っていたが、ゆっくり頷いた。
クリコ:はい。わたしです。
..声は静かに落ち着いている。
レイカ:どうして?わたしが何かした?さっきも言ったようにアツシ研究員とは、何もないわ。わたしに恋愛感情はないし、これから先も起こらないと断言できる。もしそれが理由なら、あなたの誤解よ。
..十呼吸ほどの間クリコは考えているようだった。
クリコ:ちがいます。そんなんじゃありません。
レイカ:ちがう?ちがうの?じゃ、なぜどうしてわたしを殺そうと思ったの?
クリコ:ちがいます!殺そうなんて、そんな恐ろしいこと思いません。
..二人の様子は傍のケイボを通じてボダイCと召集された心理学博士、それに警備本部の司令に送られている。
C :おお、ようやくしゃべったな。
..Cは大きく頷く。だが、クリコが口を開いたのはそれだけだった。それ以降は何を言っても沈黙を通した。30分もすると、さすがにレイカも言葉が無くなった。やむなく話題の転換を試みた。
レイカ:そうそう、カズヤさんのお金、例の700万円ね、サオリさんに渡すのをあなたにやってもらおうと思っていたんだけど、こんなことになっちゃたからわたしがやっておいたわ。ちょっとした番狂わせだったわね。
..そこでレイカは、一息入れてクリコの発言を待った。が、やはり無言なので勝手に続ける。
レイカ:どうしてこんな番狂わせが起きたかというと、過去でカズヤさんは自分の分の馬券は買ってないのよ。コウイチさんの7千円分を買っただけなの。カズヤさんが現金を手にしたおかげで軽い「時震」が発生したの。だから、カズヤさんから700万円を取り上げなければならなくなったのよ。さらに「時震」は時間帯の一部を歪め、ワクチンの話が「歪み」で屈折してカズヤさんに早く届いてしまう--シュミレーションがそういう結果を予想していた。だから、二人が連絡をとれないようにサオリさんのスマホを一時とりあげざるを得なかったの。でも、もうあなたは「犯罪者」じゃないから、安心してね。
..俯いていたクリコは顔をあげた。心なし目の光が強くなった。
クリコ:それじゃ…今度はサオリさんとお母さんの過去が変更になります。
..非難する口調で小さな声で言った。
レイカ:サオリさんのお母さんは過去には持病が起こってないの。時間が「歪み」を修正しようと働いたために今回発作が起きたのよ。これで、やがてお母さんは回復し、誰の手にもお金は残らない。つまり何事もなかった状態に修正される…そういうことよ。やはりいつの時点でも未来は不確定だったのね。
..ほんの一言だけど、クリコが発言したことにレイカは安堵した。
レイカ:それからオペ「トシシュン」だけど、無事に予定通り終了したわ。今回のあなたの働きを最高会も高く評価しているわよ。先導士の選抜に有利な材料よ。収集されたデータの解析がいま進んでいるけど、うまくいくといいわね。もし、理想的に進めば2日後くらいの未来ならば、ほぼ完璧に具現化できる、つまり2日後を体験できるのよ。そしてやがては10年後でも可能になるでしょうね。あなたは10年後なにをしてるでしょうね。
..レイカはクリコの表情を見て壁は取れたと感じた。が、相変わらず事件のことは何も語らない。時間も経った。レイカは立ち上がる。
レイカ:それじゃ今日はこれで。何か不自由してない?もしあったら言ってね。また来るから。
..そして最後にダメ押しをした。
レイカ:さっきも言ったように、今回のタスクであなたは先導士選抜で有利になったわ。でもね、そのプラスと「事件」のマイナスを比べると、残念ながらマイナスのほうが遥かに大きいと思わざるを得ないわ。今度までに考えておいてね。
..レイカが開いたドアに近づいた時
クリコ:先生!
..突然叫んだクリコが走りよって来た。驚いたレイカの胸にクリコが飛び込んだ。
レイカ:どうしたの?
..抱くとクリコの体が震えている。泣いてレイカにすがりついてきた。
レイカ:どうしたの?だいじょうぶよ、何も心配しなくてもいいの。
..レイカが抱きしめ、クリコは子どものように泣きじゃくった。


..カズヤはビール瓶を提げて部屋に入った。一杯目をそれこそ息もつかず飲み干す。Pfaaaa--!それは、ため息ではなかった。体内に満ちていた「満足」が一杯に充足し、溢れ出たのだ。つい今しがた、いつもより2時間も早く帰宅した。
カナメ :あ、朝帰り。じゃない、夕帰りだ!
ハハ :ゆうべ(昨夜)どうしたの?
..集中砲火を浴びた。
カズヤ:タケシと飲んでて遅くなったんで泊まった。
..カズヤは用意していた答えを返す。
ハハ :それなら電話しなさいよ。
..今朝目覚めたカズヤは、会社に休暇の電話を入れた。そして、「サオリちゃんも、たまにはのんびりしなきゃ」と、行きたい所はないか訊いた。
サオリ :永いこと海を見てないから、きれいな浜辺。
..それならと江ノ電に乗り、江ノ島を手をつなぎゆっくり散策して来たのだ。明るい日差しと新鮮な風に包まれ十分に開放された気分に浸れた。
カズヤ:ここで良かったの?ディズニィーランドとかでなくても。
サオリ :ううん。これが一番。わたしずーっと24時間闇の中にいたのよ。こうしていると生き返る気がする。自分が生きているって実感できる。来てよかったー。ありがとう。
..サオリは上機嫌だった。そして島の展望台にも昇り、土産物店でサオリは綺麗な貝殻などを買った。カズヤも母やカナメにと思ったが、するどいカナメのことだ、なにがあったかすぐに見抜くと思い直し止めた。夕方までには帰らないといけないと言うサオリと池袋に戻り、ロッカーの荷物を出すと改札で見送った。
..机の上に例のコウイチのメモがまだ残っている。取り上げると裂いてゴミ箱に捨てた。<終わったんだな>スマホも出てきた。サオリの母の事もほぼかたがついた。考えてみれば忙しく気忙しい一ヶ月だった。<「お告げ」も終わったんだ。もう二度とないだろう>
カナメ :「夕帰り」なんてやるじゃん。
..突然ドアが開いた。
カナメ :「午前さま」や「朝帰り」ならまだしも、いきなり「夕帰り」かい、明智君。
..カナメは奇妙な作り声を出した。
カズヤ:いつから二十面相になったんだ?
カナメ :母はだませても、この二十面相さまはだませないぜ。「タケシのとこ泊まった」?、もう少しまともなウソはつけんのかね。
..カズヤは机の上のコミック誌を投げた。が、ページが開きカナメまで届かない。カナメは笑い転げる。
..そしてその晩コウイチがやって来た。心配かけた侘びと事後報告だった。
コウイチ:処理に思った以上に時間がかかって報告がおそくなり申し訳ない。でも綺麗に片がつきました。ほんとに心配・迷惑をかけました。
..酒・食事になったところで、
コウイチ:カナちゃん、誕生プレゼント遅くなってごめんな。
..と厚手のビニール袋を渡す。カズヤや父母には分からないが、ブランドのデザインだ。カナメの目が丸くなる。
コウイチ:カナちゃんも、もうレディだからちょっといい物を持たないと。
..カナメはおそるおそるという感じで中身を取り出す。レザー仕様のピンクの手帳だ。ブランドロゴが出張っている。
カナメ :UWa--O!----こんな高いもの、いいの?
コウイチ:カナちゃんにも、今回は心配させたから。
..カズヤは、カナメの態度からブランド物だなと思った。手帳だから大きさはたいしたことはない。が、前のバッグや財布のことを考え<10万円…もっとかな?>と勝手に思い巡らす。父母は「ふ--ん、手帳か」と思っただけだろう。一応口では礼を言ったが、特別な感慨はないようだ。
..食後、カズヤとカナメは部屋へひきとり、父とコウイチはダイニングで話していた。そして1時間も経ったころコウイチがカズヤの部屋にやって来た。
コウイチ:今回は世話になった。ほんと、カズヤくんのお陰だ。
カズヤ:その事は、もういいですって。
コウイチ:それで、話しってなんだい。
..カズヤは「なでしこ」のママの一件を伝えた。
コウイチ:分かった。あしたは商談で新宿に来るから7時に「なでしこ」で落ち合おうや。どんなヒトか一度は会っておかないとな。
..カズヤは簡単な地図を書いて渡した。コウイチが帰りPCで動画を見ているとサオリから電話がきた。
サオリ :今日はほんとうにありがとう。すごい久しぶりに楽しかったわ。
..そして母の様態を告げた。暗幕もとれ面会できるまでに回復したという。
カズヤ:やっぱすぐに連絡ができるっていいね。
サオリ :ほんとに。気持ちまで軽くなったわ。
..そして、もう一度ワクチンのことを医者に訊いたという。
サオリ :それでね、お金はなんとかなりますって言ったら、ぜひ、二人とも検査をしてもらったほうがいいって。それも、早いほどいいって。
カズヤ:じゃ、そうすべきだよ。
サオリ :そうよね。あした頼んでみるわ。


..レイカはボサツ博物館にいた。クリコが確保されて一週間が経った。その間レイカは一日に一度はクリコを訪れている。相変わらず事件については何も話さない。他愛もない世間話をして、差し入れのケーキを一緒に食べただけで帰ってくることもある。そして午後の小休憩をしていると最高会から呼び出された。もう一週間にもなるのに何も進展しない事を責められた。各ボダイからいろんな発言があり、ボダイCが提案した。
C :こうなれば仕方ありません。実証確認を発動します。
..つまり、警備隊員を事件発生時に移送し直接クリコを観察するということだ。クリコに調査モスキートを放ち徹底して行動を記録する。事件の1年前から通信を含む全行動を調べあげる。そうすれば、なにがあったかの事実関係は明白になる。それを証拠として裁判に臨む。Cはそうしたいというのだ。ただし、そこにはプライバシーの保護などない。よって「実証確認」は裁判所の許可がいる。何人かのボダイが賛同するように頷いた。
レイカ:待ってください。事件を起こした事はクリコは認めています。いまさら何を調べるのですか?
C :自供など証拠にならない。裁判でひっくり返すかもしれない。
レイカ:でも、爆薬作りやプログラム改造で手伝った証人がいます。
C :それも確実ではない。裁判で「知らない」で通せばそれまでだ。弁護士がいろいろ知恵をつけるのが、裁判を長引かせる一因だ。だから「実証確認」の優位性が制度として確立したんじゃなかったかね?
レイカ:でも、「実証確認」では心の中まで確認できません。クリコは「殺すつもりなどなかった」とはっきり答えています。
A :確かに「実証確認」では全てが晒されるが、思考やまして心までは確認できない。だが、時間がかかり過ぎている。そこでだ。レイカ・ダイセンダツ、あなたはクリコを訴える意思はあるのかな?この件は、まだ現時点では法的に刑事事件ではない。あなたの 告訴が無ければ、それまでだ。どうするかな?
..その後もボダイたちからさまざまな発言があった。そして明日の午前9時を限り、告訴するかしないか返答するよう言い渡されたのだ。
..壁には3人のボサツの大きな写真パネルが掲げられている。それぞれのパネルの下にモニターがある。それにタッチすると、在りし日のボサツが実寸3Dホログラムで現れ、講義している様子や庭で花壇の世話をする姿などが見られる。ただし開祖ボサツだけは解像度が低いらしく像が少しにじんでいる。 レイカは開祖ボサツのモニターに手をかざす。メニューが現れる。「趣味」を選ぶ。自宅の一室だろう、画架に向かい絵を描いている。鏡を立て自画像をかいているところだ。意外に真剣な顔だ。<趣味はお絵かきか…>元の映像はおそらく家族が撮ったのだろう。ボサツがカメラの方を見て笑う。「ちょっとイイ男に描きすぎたかな」それに撮影の女性が答える「ちょっとばかりじゃない。もっとハゲてるし」「まあいいじゃないか。大目に見ろよ」「だめよ。事実を見つめなきゃ」そして二人大声で笑う。家族の暖い風が吹いてくる。また、公園などのんびり散策している姿を見てるとつい「おじいちゃん」と呼びかけたくなる。いや、声にはださないが呼びかけてしまう。<家族か、そういえばクリコにも当然家族はあるんだろうな>これまでクリコの家族のことなど考えたこともない。<今度聞いてみよう>それで、もしかしたらクリコの心がほぐれるかもしれない。が、あすの9時には間に合わない。レイカは心が決まらない。<訴えなくてもいい。でも、もしかすると訴えた方が本人のためになるかもしれない>自分では分かっている。決められないのは、クリコの本心が分からないからだ。裁判になれば、検察はアツシへの恋情を犯行動機だと主張すだろう。だが、クリコはアツシのことは強く否定した。レイカの得た感触でも、それが動機ではない。<なに?彼女の心の中に何があるの?なんでそんなにわたしを恨むの?>見当違いの裁判が続き、レイカもそれに付き合わされることになる。できればそんな無為な時間を浪費するのは避けたい。それにレイカは確信している。<裁判でもクリコは沈黙を守るだろう>だれも真相を知らないまま結審することになる。
..三代ボサツの姿に問いかける。<おじいちゃん、わたしどうしたらいい?>誰かが近づく足音がする。
カカリ:失礼します。先生、そろそろ閉館しようと思いますが、どうなさいますか?キーカードをお預けしましょうか?
..係りの女性はカードを差し出す。
レイカ:ああ、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ。もうそんな時間?
..レイカは外を見る。ちょうど黄昏時で、庭の照明灯が点灯している。
レイカ:いえ、帰ります。ごめんなさいね。
..係員は、三代ボサツのパネルを見上げて、
カカリ:やっぱり先生とどこか似てらっしゃいますね。
レイカ:そう?
カカリ:この前ボダイお二人がいらしたんですけど、「次にボサツになれるのは、誰かなー?」て話しをしていらして、「やっぱ、レイカ君じゃないか?」ておっしゃってました。
レイカ:まさか。
カカリ:本当に。何でも、いま提出されてる論文の審査が進んでいるけど、それがすごいって。宇宙の内臓をひっくり返すような話しだって熱く語っていらしゃいましたよ。そしたらもうお一人が「あれが真ならまちがいなくボサツ入りだ」って断言してました。
レイカ:それじゃ、せいぜいキレイな写真を残しておかなきゃ、ね。
..外へ出る。レイカの腹は決まった。告訴しない。それが一番だと思う。だが、その先をどうするか?何とかセンダツにはしてやりたい。だが先導士は無理だ。今回大きくマイナスを稼いだ。選考に通るとは思えない。しかし「転送管理士」なら問題なく通る。それで上等だ。<それしかないわね。事件の真相についてはもっと時間をかけて聞き出しましょう>
..考え事に気をとられレイカは薄暗がりの舗道をゆっくりと進んでいた。そして、下を向いていたレイカは何かにぶつかった。貧血が起きたときのような軽い眩暈がした。すぐにはっとすると視界に女性の下半身が見える。顔をあげ、
レイカ:ごめんなさい。ぼーっとして気がつかなかったわ。本当にごめんなさい。
..急いで謝る。
クリコ: レイカ先生。
..優しい声がした。レイカは相手を見つめる。暗くてもうひとつはっきりしないが声で見当はついた。
レイカ:クリコ…クリコちゃん?びっくりした。外出したの?
クリコ:お散歩です。部屋の中ばっかじゃ、体も気分もなまって…あそこに掛けませんか?
..クリコはベンチを指す。
クリコ:先生、わたしこれからどうなるのでしょう?裁判して刑務所行きですか?
レイカ:あなたの希望は?
クリコ:わたしはそれでも仕方ないと思っています。
..違う。あのだんまりのクリコと同一人物とは思われないほど滑らかに話す。が、どこか影が薄い。存在感が薄いのだ。<疲れてるのかしら>
レイカ:でも、もし裁判もなく当然刑務所にもいかないで済む方法があるとしたら?
クリコ:わかりません。わたしは刑務所に行くべき人間なんです。だから、分かりません。
レイカ:あのね…あす朝一番に最高会へ「あなたを告訴しない」と伝えると決めたの。だから済んだことは忘れて。ここまで来たんだもの、センダツ号を取得してよ。それで「転送管理士」でがんばって。それから、いつでもいいから事件のこと話す気になったら教えて。本当のことを知りたいの。
クリコ:話す気になったので、こうしてやって来ました。
レイカ:え?
..そこでクリコはくすっと笑った。
クリコ:まだ分かりませんか?先生でも分からないことがあるなんて、なんだか嬉しいです。これを見てください。
..そう言うとクリコは左手を出し、おしゃれな太目のブレスレットを取った。その手首をレイカに差し出し、スマホの明かりで照らす。そこには数本の痛々しい傷跡があった。リストカットの痕と思われる。
レイカ:!、これどうしたの?
..レイカの知る限りクリコが腕時計やリストベルトを巻いてるのを見たことがない。それに初めて見る傷跡はかなり古い物だ。<どいういこと?>レイカは顔をクリコに近づけまじまじと見る。
レイカ:あなた…もしかして…
クリコ:分かりました?
レイカ:もしかしたら…未来のクリコちゃん?
クリコ:はい。ちょうど10年後のクリコです。
レイカ:驚いたー! <それでか…それで陰が薄いんだ>道理で…クリコちゃんにしては、何か変だと思ったわ。じゃ、あなたは先導士になれたの?こうして時間移動して来てるってことは?
クリコ:いいえ、なれませんでした。今回は10年後の先生にお願いし相談して、やって来ました。事件の説明とその後どうなったかを報告するために。
レイカ:そー(!)…わたしも先導士としてそれなりに経験を重ねてきたけど、正真正銘の、未来から来たヒトに会うのは初めてだわ。驚いた。じゃ、事件の説明をしてくれる。というより、どうしてわたしが憎いの?
クリコ:お答えする前に一つ教えてください。こちらのクリコを先生のメイドにしていただきたいとお願いしたらきいていただけますか?
レイカ:メイド?なぜ?
クリコ:わたし、カレッジに入った最初の動機は先導士になりたかったからです。でも、歳月が過ぎていくうちに考えというか気持ちが変化していきました。
..<ああ、やっと本音がきける…>すぐに次へ進むと思ったが、そこでクリコは黙り込んだ。暗くて 判然としないが、口を堅く結んで何かを思いつめている。レイカはしばらく待った。
クリコ:そばに…
..やっと言葉が出た。
クリコ:おそばに置いてほしかったんです!
..その後は一気にまくしたてた。
クリコ:なにも特別な希望はありませんでした。ただ、わたしの方をふりむいてほしかったんです!ずっと先生のそばにいて、同じ空気を吸い同じ話しで笑いあい、わたしが先生のすべてのお世話をしたい!それだけが願いでした。
..レイカは言葉がでない。ただクリコを見つめるだけだ。
クリコ:これは、恋だと思います。わたしは後先も分からないほど先生に恋をしてしまいました。……正直、もう先導士なんてどうでもよくなっていました。ただいつもお傍にいたい、それだけでした。でも先生はわたしを振り向いてくれません。…それで、先生が病気や怪我など困ることが起こればと考えてしまいました。そうしたら、わたしが飛んでいって一人で全てのお世話ができる…バカですね、勝手に熱くなってしまったんです。
..クリコの言葉はだんだん弱くなり最後を言い終わるころは聞き取れないほどだ。そして、手で顔を覆うと嗚咽を漏らし泣き出した。泣き声と「ごめんなさい」とが交互に入り混じった。
レイカ:そうだったの…
..レイカはクリコの肩を抱いた。クリコは「ごめんなさい」を繰り返しレイカの胸に泣き崩れた。そのまま時が過ぎた。
レイカ:あなたの気持ちを理解してあげられなくて悪かったわ。
..ようやくクリコも落ち着いてきた。
クリコ:いえ、わたしが愚かだったんです。随分迷惑をかけてしまいました。それなのに、先生は私を告訴しませんでした。
..レイカは頷く。
クリコ:でもわたしはカレッジに行かなくなりました。落ち込んで、自己嫌悪になり引きこもってしまいました。その結果がこれです。
..クリコは再度手首を差し出す。
クリコ:先生は、そんなわたしを心配して何度も訪ねてくださいました。でも、わたしはどうしても本当のことが言えなくて、結局抜け殻のようになって故郷に戻りました。立ち直るのに6〜7年かかりました。それでようやく考えられるようになったんです。考えた結論が、わたしは告訴され裁判をうければよかったんだということです。そうすれば、わたしも少しは現実的になり、過去と決別できたんじゃないか…そう思うようになりました。
レイカ:そう…
クリコ:で、勇気をだして10年後の先生に会い、真実を、わたしが恋していたことを打ち明けたんです。そしていろいろ話し合った結果、遡って告訴される方が良いということになりました。
レイカ:じゃ、あなたは、この時点からやり直そうというの?
クリコ:はい。
レイカ:わたしが、10年後のわたしがそう結論した、ということ?
クリコ:そうです。
..レイカの思考は逡巡した。過去の変更、「時間分岐」が起こる行為は厳禁されている。だが、いまの場合それには当たらない。言うならば、「未来の変更」だ。こうした場合まで法的に想定されていない。当然だろう、「未来を変更する」などという概念が存在しないからだ。だが、10年後のレイカ・クリコからすれば、これは過去の変更に当たる。それでも10年後のレイカは「良し」と判断したという。<わからない。でも、10年後のわたしがそう判断したのなら、おそらく問題はないのだと思うしかない>クリコの罪状は「危険物送付」と「傷害未遂」というところか?仮に実刑でも1年くらいか、いや、もっと短い気がする。もしかすると、裁判長の訓戒で済むかもしれない。<しかし、この時点からやり直すためには、10年後のわたしと合体しなければならない…>
レイカ:10年後のわたしは、どこに?
クリコ:今回先導していただきました。でも、先生に近づく訳にいかないので影響のない所で待機していらっしゃいます。
..レイカのスマホが鳴った。「トーサン」だ。部屋のクリコを監視しているケイボからの連絡で、クリコの様子が急におかしくなったという。元気がなく自力で立ち上がるのがやっとらしい。
レイカ:その原因はあきらかです。「自己遭遇」です。
..「自己遭遇」とは、同一の固体が同時間の近距離で遭遇することだ。生体の場合、一人の生体エネルギーを遭遇した二人で分け合うことになる。従って体力が半分に落ちる。こことクリコの居室はおよそ300mだ。もっと近いと二人は合体してしまう。
トーサン:自己遭遇?事実なら未来から来るしかないが。
レイカ:そうです。10年後からクリコちゃんがやって来ました。
..そこで「トーサン」には珍しく間があった。
トーサン:という事は、10年後にようやく心境の変化があったということだな。それならよーく話しを聞いてくれ。
レイカ:はい。いま聞いているところです。トーサンから何かありますか?
トーサン:きっと恋愛がらみになるだろう。それはわたしの管轄外だ。手に負えない。キミにまかすよ。ただ、生体の自己遭遇は長時間に亘ると危険だ。それは分かっているね。
レイカ:早急に処理します。
..レイカの心が笑った。<トーサンにこんなややこしい恋愛は理解不能よね>
レイカ:部屋の、こちらのクリコちゃんの生体エネルギーが下がっているわ。あなたの様子から判断すると、あなたが7くらいだから、こっちのクリコちゃんはおそらく3ね。だから、急がないと。じゃ、明日あなたを告訴するわ。それでいいのね?
クリコ:それが最善だと、未来の先生の判断です。わたしもそれを希望します。
レイカ:分かった。それじゃ、こちらの「あなた」の所へ急ぎましょう。合体しなくちゃ分岐は起こらないわ。
..二人は立ち上がる。機関本部の居住スペースに向かった。建物に入り最上階までエレベータで登る。ドアが開くとその先は長い廊下だ。
レイカ:あそこよ。ケイボが立っているわね。あの部屋に近づけばあなたは、自然に合体して一人の状態に戻り、時間分岐が起こるわ。分かった?
..クリコは決意した表情で頷く。
レイカ:それで、わたしの合体予定はどうなっているの?
..クリコは微笑む。
クリコ:もう、済んでます。
レイカ:え、済んだ。
クリコ:はい。さっきわたしとぶつかった時、ショックと眩暈を感じませんでしたか?
レイカ:そう言えば、感じたわ。あのときに私ともう一人が合体したのね?
クリコ:そうです。では、わたし行きます。
..クリコは廊下を歩き出す。その後姿に迷いはない。もう少しでケイボが立ちはだかって止めると思ったとき、クリコの姿は消えた。ケイボが目標を見失って右往左往している。見届けたレイカは踵を返した。そして外へ出て歩いていると目がかすんできた。やがて体から力が抜け意識に靄がかかる。<旧時間帯が消滅し始めた…>
..ドン、なにかにぶつかった。俯いて歩いていたレイカは, あわてて頭を上げた。だがどこにも相手などいない。あの感触は女性だったと感じた。
カカリ:先生!どうされました?!
..誰かが背後から上体を抱える。突然眩暈が襲ったのだ。<いったい、何がおきたの?>
カカリ:大丈夫ですか?
..傍で声がする。少し朦朧とした意識で振り返ると、博物館の女性係員がレイカを抱き覗き込むように見つめている。博物館から10mほど来たところだ。
カカリ:なんか歩き方がおぼつかないなと思ったら急にのけぞられて、そのまま倒れこみそうだったのでびっくりしました。
レイカ:もう、もう、だいじょうぶよ。ありがとう。
カカリ:ほんとうに?
レイカ:ええ、本当に。ごめんなさいね。ちょっと立ち眩みしたみたい。
カカリ:診療所にいきましょうか。
..言いながら係員はゆっくり手を離す。
カカリ:あのベンチに掛けてください。少しお休みになったほうがいいです。
..<おかしい。モスキートはどうしてたの?>係員は先に行ってベンチの埃を払っている。
レイカ:モスキート。どこ?
..レイカは呼んだ。
モスキト:ハイ。御用デスカ?
..耳の傍で返事が聞こえる。
レイカ:何にぶつかったの?女性のような気がしたけど。
モスキト:イエ、ナニモブツカッテイマセン。タダ衝撃ヲ受ケタヨウデス。体ニ変調ハアリマスカ?
..<モスキートさえ感知しなかった。ということは…>
レイカ:いえ、もうだいじょうぶよ。
モスキト:念ノタメ近クヲ探索シマス。
..モスキートは飛び去った。二人は小暗いベンチに腰を下ろす。
カカリ:毎日お忙しすぎるんじゃありません?
レイカ:そーね。
カカリ:そういえば、襲撃事件の犯人、ドクターカレッジの研究生で、おまけに女性なんですってね?
レイカ:あら、事件の事知ってるの?
カカリ:みんな知ってますよ。特に先生は有名人だし。犯人はもう刑務所へ行きました?
レイカ:いいえ。
..レイカの頭の中にクリコが浮かび上がる。「告訴してください。それが希望です」
レイカ:あした告訴するわ。教え子を訴えるのもいやだけど、それがいい気がする。
カカリ:そうですとも。悪いことをした者は、それなりの懲罰をうけなきゃ。まして、先生の命を狙うなんてとんでもないわ。
..翌日朝一番に「クリコを告訴します」とボダイCに伝えた。クリコはすぐに警察へ移送されることになった。レイカは居住区裏手の通用門に向かった。警備隊の車が待機している。やがて警備隊員2名に連行されたクリコが出てきた。
レイカ:クリコちゃん。
..レイカは声をかけ近寄った。クリコは意外にも晴れ晴れとした笑顔だ。
クリコ:あ、先生…
..隊員たちはちょっと身を引いた。レイカはクリコを抱きしめる。
レイカ:だいじょうぶよ。心配ないから。きっとそんなに永くはならないわ。
クリコ:先生、わたし、ゆうべ先生の夢を見ました。ベンチで先生に告白しました。そのときもこうして抱いてくださいました。夢だけど、とっても幸せでした。
..そのときレイカに閃いたものがあった。
レイカ:帰ってきたらわたしの秘書をやる?
クリコ:え…ほんとうに!…
レイカ:メイドも兼ねるのよ。
..クリコの瞳が大きく輝く。
クリコ:やります。やらせてください!
レイカ:でも、わたしはヒト使いが荒いって言われてるらしいから、うーんと覚悟してね。
クリコ:ありがとうございます。わたし、生きていきます。お傍に置いていただけるなら、なにが無くても生きていきます!


..4月25日金曜日、タケシはカズヤを訪ねていた。カズヤの部屋で水割りを飲んでいる。さっきまでカナメも同席していた。
タケシ :カナちゃん、そういえば「卒業旅行」どうなった?
カナメ :あら、知ってるの?お兄ちゃんはおしゃべりなんだから。あの話しねー、いつの間にか段々広まってね。父兄から「女子高生だけの旅行なんてとんでもない!」て学校に苦情があって、あわてて学校から禁止令が出たのよ。父兄が何人か同伴で、必ず事前に学校に計画を提出する事、それ以外は一切禁止てね。だからあの話し流れちゃったらしいわ。でも、わたしは関係ないからどうてことないわ。3年になってルイは「進学Aコース」だし、わたしは「Bコース」だから顔を見ることもなくなってさっぱりしてる。邪悪な雲が消えて「おお、我が青春の日々よ」て感じ。
タケシ :そりゃよかったね。
..タケシは大声で笑う。
カズヤ:おまえ、あれは済んだのか?歴史の語呂合わせ。
カナメ :うん。なんとか間に合っていま学校の廊下に展示してある。でね、どれがいいと思うか人気投票しようてことになって、いまんとこカナの班の作品がベスト10を占めてるのよ。すごいでしょ。全作品のプリントももらったよ。見る?
カズヤ:いや、いらない。 <考えてみれば、あの語呂合わせがなかったら叔父さんはいまごろ最悪の状態だな。少しはこいつに感謝だ>
タケシ :カズ、サオリちゃんとはうまくいってんのか?
カズヤ:ああ、まあな。
..答えてカズヤはカナメに手を振る。
カズヤ:ここからは大人の話だ。行った、行った。
カナメ :なによ。都合悪くなると追っ払って!わたしだって、もう大人だからね。叔父さんだって、もうレディだって認めたじゃん。
..カナメは不満そうに立ち上がる。
タケシ :レディ?
カズヤ:叔父さんがな、ちょっと機嫌が良かった時「カナはもうレディだから」と持ち上げてくれたんだよ。だからあいつ調子にのって。
タケシ :はは、まあいいじゃないか。その叔父さんだけど、「なでしこ」の件はどうなってるんだ?
カズヤ:それか…
..カズヤは戸惑ったようだ。知らない街で行きくれてしまったかのようにちょっと空ろだ。
..コウイチと約束の火曜日、カズヤは仕事を早めに切り上げ「なでしこ」へ急いだ。ビルの入り口近くでコウイチが待っていた。皮ジャンスタイルに気合を感じる。カズヤが先導して店に入りママに紹介した。他に客は無い。カウンターに掛けた。
ママ :今回はめんどうなことお願いして、ほんとうに申しわけありません。
..ビールと突き出しを並べるママは恐縮し、体も一回り小さくなったかに見える。
ママ :でも、ほんとうに困っているんです。
..さっそく三人で相談が始まった。いろんな案や意見が、それぞれの口から出た。手紙では、却って相手の感情を逆撫でる。「待ち伏せ」「尾行」といってもコウイチは横浜だ。仕事だって忙しく時間的に余裕が無い。確実に決まった時間に会うためには、時間を指定して呼び出すしかない。少しずつ店も混み始め、席をカウンターの奥の端に替えてカズヤとコウイチで相談した。結局電話で呼び出すしかないだろうと落ち着いた。「今週土曜午後6時、宮下公園の一番南」が渋谷駅から近いうえ人出がなくていいだろう、と決まりかけたのが8時ころだった。
コウイチ:よし!
..コウイチは気力をみなぎらせる。ちょっとした迫力だ。<効果が期待できるな>カズヤが思った時、新たに一人の客が入って来た。
ママ :いらっし…!!
..ママの顔がひきつった。もうかなり酔っている男は、問題の男だった。カズヤも驚き、体に緊張が走るのを感じた。
カズヤ:あいつです。来ました、例の男が(!)
..ママはカウンターの中で奥のほうへ退いた。カズヤは立ち上がると男に近づいた。コウイチもすぐにカズヤに従った。
カズヤ:ここへは二度と来ないように言われたはずだ。
..男を押しとどめ、小声だが力を込めて言った。
コウイチ:なあ、あんた、ちょっと外で話そうや。
..皮ジャンが、言葉のインパクトを増大させる。
オトコ :なんだよ!テメーら!!
..威勢はいいが、さすがにびびっている。カズヤが先に立ちコウイチが後ろから男の背を軽く押した。路上に出てカズヤは警戒していた。<刃物をだすかもしれない>男の正面にはコウイチが回った。
コウイチ:あんたなー、ママにつきまとうなよ。
..諭すような優しい言い方だ。傍に寄ると男は酒臭い。
オトコ :おまえらになんの関係があるんだよー!
コウイチ:それがな、あるんだよ。ママとオレは、な…
..言葉がだんだん弱くなっていった。コウイチの口は開いたままだ。続きの言葉が出てこない。<え…>カズヤはコウイチを見つめる。
コウイチ:あんた…ダイちゃん?…
..男は、焦点をあわすように眼を細めコウイチを見つめる。
オトコ :誰だい?…オレを知ってるのか?…もしかして、コー…コウちゃんか?
オトコ :そうだよ、コウイチだ。やっぱダイちゃんか。
..カズヤの部屋で、
タケシ :なんだい、そりゃ!二人は知り合いだったって事か?
..タケシがあきれた声をだす。
カズヤ:そうなんだよ。こっちは半戦闘モードでいるのに、すっかりコケたぜ。
..カズヤもため息交じりに答える。
タケシ :まるでコントだな、それもできの悪い。それで、どうなった?
..男はダイゴ。コウイチとは小中のころ家が近くで学校もいっしょだった。特に小学生のときはよく遊んでいたが、中学途中で越してしまった。それ以来音信はない。それをカズヤは翌日に聞いた。その晩は「二人で話そう」と別の飲み屋に行き、カズヤは店に戻った。
ママ :そう、二人は知り合いだったの。奇遇ねー。
..ママも驚いた。
カズヤ:だからさ、叔父さんが今頃説得してるだろうから、もう心配はないと思うよ。
ママ :そうね。でも、世間は狭いものねー。カズちゃんの叔父さん、素敵なヒトねー。わたしタイプだな。
カズヤ:よしてくれよ。家族もちだぜ。この上問題起こさないでな。
ママ :あら、わたしが起こした訳じゃないわ。なんにしても今夜はありがとう。おごりよ。どんどんやって。
..さすがにその後が気になり翌日カズヤはコウイチに電話した。そして事態が展開しているのを知った。
コウイチ:結局一人じゃやっぱ寂しいというか、もの足りないんだな。それになにかと不自由だし。あいつはこまめに掃除・洗濯のできるタイプじゃないからな。それでな、会社にちょうど似合いそうな女性がいるんで、今度紹介することにしたんだよ。
..女性は44〜5歳、結婚歴はあるが子供はないという。
カズヤ:ほー、それいいじゃないですか。
..タケシがちゃちを入れる。
タケシ :なんだ、なんだ。だんだんいい話しになってるじゃんか。ヤジ馬としてはつまらんぞ。
カズヤ:こういうのを「瓢箪から駒」て言うのかな?
タケシ :それなら、「駒から瓢箪」のほうがヤジ馬としてはありがたいな。
カズヤ:それで、土曜だからあしただな。初顔合わせすることになったんだって。
..そしてカズヤはトイレに立った。タケシは手持ち無沙汰に立ち上がる。<元は、サオリちゃんの事を聞こうと思ったんだ。どこかで、話しが変っちまった。>何の気なしにPCの乗った机に眼がいった。白紙の裏のメモ書きがある。見るとカズヤのて(筆跡)で鉛筆書きだ。
..4/27 東京 フローラ  12−15
..<これは…!>タケシの顔がひきつった。瞬時見つめていたが、あわててスマホを出すと写真を撮った。そしてカズヤが戻った。
タケシ :サ、サオリちゃん…
..もうタケシの頭の中は競馬のみだ。他の事はまともに考えられない。
カズヤ:ん?彼女がなんだ?
タケシ :前に詐欺師呼ばわりして…悪かった。まさか…彼女に話してないよな。
カズヤ:話すわけないだろ。オレが信じてなかったんだから。
タケシ :そ、か。それならいいんだ。いや、もしかして話してしまったなら会わせる顔がないと思って…
..話しがしどろもどろだ。
タケシ :ところでさ、「お告げ」は本当に終わったのか?
カズヤ:終わりさ。
..カズヤの「秘密」が疼く。後ろめたさが目を覚ます。
カズヤ:もう一ヶ月以上気配もない。結局あれは何だったのかな?それにクミコさんはどこへ行ってしまったんだろ?イナカに帰ったのかなー。
タケシ :なにか事件に巻き込まれて最悪の事態になっているとか。
カズヤ:おいおい。
タケシ :無いとは言えないだろ?
カズヤ:何にしても不可思議なヒトだった。
..タケシは、カズヤがメモに触れない事に少し苛立っている。<あれは「お告げ」じゃないのか…単に自分で検討したメモか?>
タケシ :土日はどうする?
カズヤ:馬か?
タケシ :ああ。
カズヤ:やめとくかな。
タケシ :なんだ、検討してないのか?
カズヤ:全然。ここのところそれどころじゃなかったしな。「ザ・ホース」(競馬新聞)も買ってない。今度はGUだっけ?
タケシ :<じゃ、メモは何なんだよ>日曜のサンスポ・フローラはGUだ。
..その晩タケシはカズヤに不信感を抱いたまま帰った。


..4月27日の東京(府中)競馬場、いまサンケイスポーツ賞フローラステークスが確定した。馬番2−5で配当5,970円だ。快晴の春。レイカはスタンドに立って遠くを見渡す。そして青空の下に真っ白に輝く富士山を見つけたところだ。
タケシ :やったー!やったぜ!
..タケシが大きくガッツポーズをきめる。そしてそのすぐ脇にはカズヤ・レイカが立っている。レイカはずーっと二人の後をつけて来た。ほとんど体が触れる距離で見守ってきたのだが、男二人は気にする様子が無い。
タケシ :カズも当然買ったんだろ?
カズヤ:いや、買ってないぜ。やったな。コングラチュレイションズ!一万か?
タケシ :へへ、ふふ、10万だ。
カズヤ:10万?!てことは…
タケシ :いくらだ?いくらになる!?
カズヤ:597万円!
タケシ :わーお!ほんとかよ!カズもほんとは買ってんだろ?
カズヤ:いや、本当に買ってない。
タケシ :なんでだよ?おまえ、「お告げ」があったんだろ?
カズヤ:ないよ。なんでそう思うんだ?
タケシ :そんなバカな。
..タケシはスマホを取り出すとカズヤに突きつける。
タケシ :じゃ、これはなんだよ?
..カズヤは画面を見つめ、レイカも爪先立ちして覗き込む。
..4/27 東京 フローラ  2−5
タケシ :4月27日、東京競馬場、フローラステークス、2−5。カズが書いたんだろ。この前お前の部屋で見つけてしまった。だから内緒で撮ったんだ。なのに、なんでカズが買ってないんだ?
カズヤ:まさか…
タケシ :それに、なんでオレに教えなかった?
カズヤ:まさか、お前…
..そのとき、何処からか聞き慣れた声が響いた。
? :どうかな?レイカ君。
..レイカの周囲、競馬場と人込みの全てが一瞬にかき消えた。ごった返していた騒音も消えた。後は、白っぽい光りだけが溢れた静寂の世界だ。吹き抜けていた風すら無い。レイカは広い部屋の中央に一人ぽつんと立っている。
F :この辺りでいいだろう。
..ボダイFの声だ。
レイカ:はい。十分です。
..答えて見上げると、F始め数人の目が遠くのモニター室からガラス越にレイカを見つめている。それを確認してレイカは歩き出した。
F :いやー、思った以上の出来栄えだ。どうだね?
..ここは、新設されたミライゾウケン(未来像研究所)だ。機関の中心部は「オオオク(大奥)」と呼ばれ、ダイセンダツ以上で選抜された者しか入れない。そしてそのオオオクには様々な施設がある。例えば「高度資料館」には、時間移動に関するあらゆる文献・論文が保管されている。アクセス許可を得た者しか閲覧できないどころか入館すらできない。なぜならその施設がどこにあるのか誰も知らないからだ。オオオクの敷地はそんなに広くない。そこに数十の施設があると言われても誰も信じない。全ての施設はオオオクの地下にある転送室から移動するのだ。そして、それぞれの施設の本当の所在地は知らされていない。「国内の何処か」だけしかわからない。機密保持と安全を考慮した結果だ。
..レイカはいま自分が国内の何処に居るかを知らない。分かるのは、ミライゾウケンに居るということだけだ。
レイカ:そうですね。ただ、欲を言えば映像にノイズが多いことと計算に時間がかかるようですね。
F :まだテスト前テストだからね。すぐに改善されるさ。それにデータ収集から一ヶ月先の未来だ。それを思えば驚きの出来栄えだよ。
..オペレーション「トシシュン」で収集された膨大なデータ解析が終わった。施設整備もヴァーチャルリアイティのプログラミングも基本の段階は終了した。そしてレイカが呼び出された。
F :今度、ミライゾウのテスト前テストを行う。そこでだ、キミにミライクン(未来くん=未来像顕現システム)が創る未来像を体験してもらいたい。
..そして「更にその後、ジザ201404271200(時間座標2014年4月27日12時)に移動し実況 を調査する」よう指示された。両者を比較検討するためだ。差異があれば原因を調べ修正をする。それを繰り返すことで完璧な「未来の顕現」を目指そうというのだ。そしていま、2014年4月27日15時55分の府中競馬場をミライクンが創出し、レイカが体験した。
F :ミライクンが計算した4月27日はいま経験したとおりだ。
レイカ:初めて未来を覗くことができたんですねー。感激です。まさかタケシさんが大当たりするとは。それに触感をOFFにしたのは正解でした。お陰で間近まで接近できました。テスト段階としては上々のできではないですか?あとは精度ですよね、どの程度正しいのか。
F :問題はそこだ。果たして実況が計算どおりなのか。いや、それはないな。一発で完璧な物ができるはずがない。違って当然だ。どこがどのようにどの程度に違うのか、それをキミに調査してもらいたいのだ。
レイカ:わかりました。正直なところ、taskを楽しいと思うことはなかなかありません。でも今度はなんだかおもしろそうです。 やらせていただきます。
..オオオクを出て移動椅子に掛け、レイカは自室に帰ろうとしていた。椅子は滑り出した。後はなにもしなくとも3分後には安全に部屋に着くだろう。<2014年、カズヤさんの調査…今日済ますかそれとも明日にするか>考えていると、結局一度も2014年(平成26年)に行かなかったし、カズヤにも会っていないことを思い起こした。クリコから現地の報告を受け、行動を指示をしてきただけだ。<一度は行っておくべきだったかな?>だが、レイカには懸かりっきりの任務があり忙しかった。さらにある事を失念していたのに気づいた。<クリコは現地で何と名乗っていたのだろう?>まさかコードネームを名乗っていたとは思えない。レイカは移動椅子に行き先変更を告げフロントロビーに向かった。そしてμ(ミュー=レイカの車)を呼ぶと警察署へ急いだ。
..途中、レイカは下着を買い求めた。クリコに面会してみると元気そうで時々笑顔を見せ、むしろ以前より明るい印象だった。
レイカ:何か不自由してない?
..レイカは下着を渡す。留置所も昔とは変わった。高級ホテルとはいかないが、一般のビジネスホテルより広く清潔で居心地がいいとクリコは笑った。
レイカ:まだ内緒よ。
..レイカは「トシシュン」の進捗状況をこそり教えた。1回目のテスト結果を話すと、
クリコ:えー、未来が見えたんですか?それに、タケシさんが大当たりですか!
..クリコも驚いた。
クリコ:また当たりを教えたんですか?
レイカ:ううん。あなたが靴箱にメモを入れたのが最後、その後には誰も出かけていない。だから、どうして当たりを知ったのか、今度調査に行ってくる。本来あなたの任務だけど、わたしが行くことになったの。それでね、気がついたのよ、あなたが現地で何と名乗っていたのか聞いていなかったわ。
クリコ:本名です。久美子を使いました。
..クリコは、もらったばかりのコードネームでは慣れないせいで違和感があったし、失敗しないか不安だった。任務が済めば二度と会うことのない人たちだ。確実な本名を使用したと説明した。
クリコ:現地にいらっしゃるんですか。カズヤさんとサオリちゃんどうなるのかな、て少し心配しています。
レイカ:そうね、それも見てくるわ。
..面会後、署長室に案内され署長自らが状況を説明した。クリコは事件について全て自分から進んで話したと言う。「恋」という言葉は使わなかったが、レイカの傍に居たい一心で事件を起こしたと説明した。「他の容疑者の自供もとれ、摺り合わせています。物証もありますので時間はかからないでしょう」


..レイカは、監視モスキート2機を放った。2014年4月27日午後1時だ。30分ほど前からレイカは府中競馬正門前駅にいた。改札を出て、隅に隠れるようにして2機の監視モスキートを取り出し言い聞かせた。
レイカ:コードネイムがいるわね。短く呼び易い名がいいわ。あなた…
..と1機に触れる。
レイカ:あなたは、そーね、「カモ1」よ。
..そしてもう1機を「カモ2」とした。
レイカ:じゃ、テストよ。
..そして2機を放ったのだ。2機は2mも上昇すると姿が見えなくなった。レイカは手のスマホを見る。画面を左右二分して「カモ1」「カモ2」が送る映像が並んで映る。
レイカ:カモ1、右へ移動。カモ2、左に移動。
..画面が流れる。
レイカ:その位置でカズヤ・タケシを探して。
..イヤーフォンに「了解」の声が重なる。出発前に監視モスキートにカズヤ・タケシの写真を記憶させてある。ホームから歩道橋まで大変な人ごみだが、2機なら簡単に見つけ出すだろう。やがて人ごみは歩道橋に吸い込まれ静かになったところへ次の電車が来た。ドアーが開き人々があふれ出る。そして5分、
カモ2 :発見シマシタ。
..レイカは画面を見る。多くのヒトの顔の中で枠に囲まれた顔が2つある。カズヤとタケシだ。
レイカ:了解。 カモ1は正面、カモ2は背後。追尾して。
カモ1 :正面ニ回リマス。
カモ2 :背後カラ追尾シマス。
..レイカはすこし遅れて人ごみに混ざった。
タケシ :ほー、そりゃよかったじゃん。
..レイカのイヤーフォンにタケシの声が届く。画面を見ると2人は笑顔で話している。つい先日カナメの原稿の添削が届いた。総合的に評価が良く「あなたには長い物のほうが向いていると思われます」と書いてあった。さらに「10ページ物を送ってください」と続き、出来がよければ出版社に紹介するかもしれないと取れる内容だった。これでカナメはすっかり舞い上がってしまったのだ。
カズヤ:でもな、ちょっと話しがうま過ぎないか?胡散臭い気がしないでもない。
タケシ :そりゃ、むこうだって商売だから思惑はあるんだろうな。けど、疑いだしたらキリが無いからなー。怪しげな芸能プロダクションみたいに「売り出してやる。それには300万必要だ」なんてならないとも限らないな。まさか、そんな話しあるのか?
カズヤ:いや、いまのところはない。ただ、さらにいろんなテンプレートやスクリーントーンの紹介があって、カナメはできるなら欲しそうだ。
タケシ :「要警戒」で兄貴がしっかり監視してやるんだな。
..そして話題はサオリに移った。
タケシ :今日はサオリちゃんとデートじゃないのか?
カズヤ:昨日出てきて、ゆうべ会った。なんでも今日は中学の部活メンバーでミニ同窓会があるんだって。こっちに出てる者が多いんで、東京駅地下街でランチパーティをするらしいぜ。
..サオリの母と自分の血液は、冷蔵保存でアメリカに送られた。そして血液がアメリカの研究所に届いた連絡があったこと、医師が送金の手続きをしてくれたことを聞いた。ネットで見ても全て英文だしおまけに医学専門用語が混ざっている。当然医師もサオリの手に余ると判断したのだろう。「わたしも医者として関心がありますから」と、面倒な手続きをやってくれた。そう話すサオリの表情は、最近に無く明るかった。そして話しの流れでクミコの話題になった。
カズヤ:でもさー、ほんとに何処行っちゃったんだろねー?クニは何処?
サオリ :良く知らない。なんか遠い世界だと冗談ぽく言ったことがあるわ。
カズヤ:ほんと、不思議ちゃんだよねー。
サオリ :本人がいなくなったから、もう話してもかまわないと思うから言うけど…
カズヤ:なに?
サオリ :彼女、ややこしい恋愛問題を抱えてるって、前に話したわよね?つまりね、彼女が恋焦がれている相手は…女性なの。
カズヤ:<…!>
サオリ :だから、成就する可能性はないの。そういうのって、わたしには分からないけど、何だかかわいそうだった…
カズヤ:そうだね。他人が、どうこうできる問題じゃないし。
タケシ :カズ、まさか今日の「お告げ」はなかったよな?
..サオリとクミコに気をとられていたカズヤは、はっとする。
カズヤ:う、うん。ないぜ。
..画面のタケシの表情が憮然としたようにレイカには思われた。ミライクンによれば、この後タケシは「大当たり」でほぼ600万円手にする。<なぜカズヤさんは買わないの?>
..天候は晴れ。芝・ダートともに良。10レースまでの結果は「ほぼ堅い」に「ちょい荒れ」が混ざっていた。特に4レースと8レースは、1・2番人気が2着までに入らず「荒れ」だった。カズヤはもちろん、タケシも10レースまでは勝負にでなかった。頼まれた分も全く買う気配が無い。そして11レース、サンスポ・フローラは15時45分発走だ。タケシは気合が入っている。馬券を決めてあるらしくさっさとマークシートを塗った。レイカは二人から6〜7m離れて時々スマホを見ながら様子をうかがっていた。この光景は既にミライクンで経験した。今のところ二人の様子や会場の状況は全く同じに思われる。<間もなく二人はスタンドへ移動する>思っていると二人が馬場に向かった。レイカも後に従う。ミライクンの時は映像だ。体が触れるほど近づいて観察したが、今度はそれはできない。近づくにはモスキートに頼るしかない。二人、ことにタケシの精神は平常ではない。相当近づいても気づかれることはないだろう。レイカは「カモ1・2」に接近を指示する。
..そして15時50分、馬場は沸き立っていた。 「レース実況」
..いまゴールを2・5の順に馬が通過していった。
..ウソだろー!!
..カズヤの耳の近くで叫んだ声がある。看視中のレイカは驚いた。突然状況が変わった。ミライクンにこんな場面はなかった。<どうしたというの?>
..カズヤは「馬連5−7」1点の千円買いだ。はずした。タケシを振り返ると姿がない。<え?>頭を巡らす。頭を垂れ低く蹲っている者がある。タケシだ。こんな光景を以前にも見た。<まさか…!>
カズヤ:どうしたんだよ?
..タケシは答えない。
カズヤ:まさか、またポカしたのか?
..やはり答えない。レイカも画面のタケシを注視している。タケシがゆっくり立ち上がるのにしばらく時間がかかった。幾分顔色が白い。
タケシ :カズは当てたんだろ?
カズヤ:いや。はずした。
..カズヤは馬券を見せた。それを見てタケシはスマホを取り出した。
タケシ :じゃ、これはなんだよ?
..訳が分からないままカズヤは画面の写真を見る。
..4/27 東京 フローラ 12−15
タケシ :おとついお前の部屋で見つけて撮ったんだ。「お告げ」じゃないのか?
..カズヤの目と口が大きく開いた。
カズヤ:まさか…まさかお前、これを「お告げ」だと信じたのか?!
タケシ :ああ、だって「4月27日 東京競馬場 フローラステークス 12−15」だろ?それ以外にどう思うんだ?
カズヤ:そうじゃない。違うよ!それは、今日のサオリちゃんの同窓会予定だ。電話で聞いたのをメモしただけだ。「4月27日、東京駅の地下街、レストラン「フローラ」、12時から15時」だ。なんて事だ…! で、いくらだ?
..血の気の無い顔色のタケシは黙って馬券を出した。カズヤが確認する。
カズヤ:10万かよ…
..あとは言葉にならない。レイカもショックを受けた。ミライクンの予想ははずれた。
レイカ:カモ1、カモ2、戻って来なさい。
..レイカが指示すると、7秒後2機は差し出したレイカの手に停まった。<つまり、ミライクンは「12−15」を「2−5」に変換してしまったということね。だからミライクンの予想では「大当り」…、タケシさんには気の毒だけど、勝手にやった事だから仕方ないわね>そして、二代ボサツの「時界統一論」が思い出された。{「時界」の現象は地球大気の現象に似ている。従って、その二相宇宙への写像は、流体力学的に取り扱うのが適切である}平たく言えば、「時界」のできごとは、渦に波、「高」「低」のある天気に似ているという事だ。<北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで雪が降る…か>そんな事はいまさらだが、心しているつもりでもつい失念してしまうものだ。<帰ったらミライクンに流体力学を叩き込まなきゃ。ただし、「偏微分」なんて安直な妥協案は抜きでね>レイカはくるりと後ろを向くと足早に帰途についた。


..タケシが絶望の淵に落とされたころ、サオリは女友達と地下街を散策し、分かれた後電話を掛けた。そして指定された新宿駅に向かった。コインローカーがずらりと並んだコーナーに入る。隠れるようにして中年の男が待っていた。
オトコ :例の物は?
..早速用件を切り出す。サオリは持参した紙バッグを目の高さに持ち上げる。
サオリ :これです。
..男は床に置くと中からダンボールの小箱を取り出した。そっと開いて覗きこみ小声で囁いた。
オトコ :700か?
..サオリが頷く。
オトコ :もっとなんとかならなかったのか?
サオリ :無理言わないで。彼はただのサラリーマンです。それもきっと大変な思いで作ったのに決まってます。だから、アレ、返してください。
..男はニャっと笑った。
オトコ :どーしょーかなー。
..サオリの声が大きくなった。
サオリ :返さなきゃ、警察行きます!全部ばれてもいい!絶対許さない!
..男はひるんだように見えた。
オトコ :大きい声出すなよ!ほら…
..男の投げた白い封筒がコンと音を立てて落ちた。拾ったサオリは中を覗く。そして、
サオリ :二度とわたしの前に現れないで。電話も連絡も一切しないで!守らなかったら本当に警察へ行きます!
..そのとき、やや離れたところにいた女性が突然大きな声をだした。
レイカ:STOP!
..レイカの声が響く。サオリも男もロッカーも消え、ただ明るい真っ白な世界に変わる。
レイカ:ここまででいいわ。
..ミライクンは、レイカの持ち帰ったデータでプログラム修正された。殊に二相に写像するとき時間を直線的に計算すると誤りが発生すると判り、レイカの提案で「変容時間」が試しに取り入れられた。その結果過去の実況とミライクン予測が一致した。「ミライクン」でも、タケシは「勝手に勘違い」して10万円の損害だ。そしてもう一歩進めてみようと言う事になった。「トシシュン」では、2014年3 月20〜23日に、カズヤに焦点を合わせてデータ収集してある。そのデータで他人の未来予測をしたらどうなるか?それを試してみようというのだ。そしてカズヤに近いサオリが選ばれた。タケシが大損した4月27日、その日のサオリの未来予測がいま実行されたのだ。
レイカ:やっぱ、無理があるみたい。
..レイカはスタッフに言うでもなく呟いた。今回は、先に実況調査が済んでいる。そしてミライクンの計算した予想結果は似つかないものだった。
F :どうかね?30%くらい一致するかね?
..モニター室のガラスの向こうには、研究者たちの他にボダイのほとんどが顔を揃えている。Fがマイクを通して質問した。
レイカ:いえ、全くだめです。これじゃ創作です。もしかするとミライクンは作家にむいているかもしれませんよ。
..レイカが笑うとボダイたちも声をあげて笑った。
F :しかしだ、カズヤ君のcaseは一ヶ月後の未来を見事に一致させた。大変な進歩だよ。
..そして、戻ったレイカは富士を見上げる散策道へ歩き出した。気分は晴れ晴れとしていた。「トシシュン」がここまでに示しているのは、「未来のヴァチャルリアリティーの顕現は技術的に可能である」、「1個人の顕現さえ膨大な経費・エネルギーが必要である」の2点だ。総合すれば「未来を正確に覗き見ることはできる。が、ネット検索するような気軽な個人利用など考えられない」ということになる。<おそらく「未来現出」は、極めて大規模な国家事業にのみ限られる。個人単位ではありえない>レイカの、その結論が心の雲をかき消し安心させた。翳りを作る雲は、このオペレーションが立ち上がったときからレイカの心を覆っていた。だが杞憂だったようだ。さらに気分がいいもう一つの原因があった。
..小川沿いに新鮮なそよ風に吹かれ歩いていると、レイカはサオリの実況調査が思い起される。
..パーティを終えたサオリは、女友達と地下街を散策し、一人になると電話をした。そして新宿駅のコインロッカーコーナーへと急いだ。入り口近くで待っているとやがて男が駆けて来た。
カズヤ:ごめん。ずいぶん待った?
..落ち込んだタケシとホームで別れて来たカズヤが息を切っている。
サオリ :そうでもない。ちょっと前にきたところよ。
..サオリは昨日今日の看病をまた叔母に託してきた。だからできるだけ早く帰らなければならない。もう7時を回っている。そのまま上野に行くことになった。日曜夕方の電車は行楽帰りの家族連れなどでまあまあの混雑だが、通勤時と比べれば楽だし殺気立っていない。
カズヤ:で、ワクチンが来るのはいつごろ?
サオリ :順調にいけば、3カ月後ですって。
カズヤ:早く届くといいね。
サオリ :ええ、これもほんと、カズヤさんのお陰よ。合コンのときには、まさかこんな展開になるなんて思いもしなかったわ。「神様が手をさしのべた」って言われればいまなら信じてしまう。
..カズヤは思う。<もし合コンのピンチヒッターを拒否していたら…、もしカナメの暗記メモを見てなければ…、もし叔父さんが困っていなかったなら…>一つ一つは日常にいくらでもある些細な事柄だ。でもそれの繋がりようで思わぬ未来に至った。
..カズヤは今日のタケシの件を話したものかどうか迷った。話そうかと思ったのは、サオリもほんの少し関係しているからだ。どんな反応をするか、見てみたい好奇心が蠢いたのだ。迷っているうちに上野に着いた。ホームに降り立つ。常磐線ホームに向け進んで行く二人は当然知らない、彼らの頭上に2匹の蚊が飛んでいることも離れて付いてくる女性がいることも。
サオリ :じゃ、ね。
..とサオリは小さく手を振りタラップに足をかける。
..カズヤも手を振り、
カズヤ:あ…こんど…
..サオリが、見つめる。
カズヤ:今度、お母さんに会いにいくよ。
サオリ :え、お見舞い?わざわざ出かけなくともいいわ。伝えておくから。
カズヤ:お願いに行くんだ。…ボクはサオリちゃんと…かならず結婚します、て!
..サオリの瞳孔が開いた。
サオリ :…!
..そして、sy---nn、扉がしまる。ガラスに張り付いたサオリは、怒ってるような、はんべそをかいたような表情でカズヤを見つめている。その瞳が光った。
..GyddoN
..列車が動き出す。合わせてカズヤも移動する。アナウンスが繰り返す。「危険です。ホームで走らないでください」
..すぐに列車の速度が上がった。そんな二人をレイカは離れて見守った。スマホのサオリの頬に光が流れおちた。
..二人を思い出しながら散歩中のレイカにボダイEが浮かんだ。以前この道を散策中にEに会った。<もしか今日も>と思いつつ東屋まで来ると記憶と同じ光景にでくわした。Eが同じように休憩していたのだ。
レイカ:ボダイ、お散歩ですか?
..声をかけ腰を下ろす。
E :ああ、例によって急かされてな。そうそう、これありがとう。
..Eはボトルを取り上げる。それは、以前にレイカが贈った重量軽減装置付きの保温ボトルだ。
E :おかげで毎日重宝しとるよ。…どうやら「トシシュン」も終わったようだね。
レイカ:そうですね。ほぼ終了です。わたしは何もしていませんけど。
E :そうでもないさ。クリコくんはよくやった。それもキミの適切な指導のお陰だ。で、どうかな、未来を体験した気分は?
レイカ:複雑です。
E :う…ん。分かるよ。ワシも同じ気分だから。
..そして、Eはふふっと笑った。
E :でもこれでキミはセンニョだな。
レイカ:センニョ?
E :仙人さ、女性の。
レイカ:ああ、仙女ですか。わたしが?なぜ?
E :空を飛ぶことや月や火星に行くのは誰でもできる。地球の裏側だって10分で行ける。だがな、キミは過去から未来まで行き来する初めての人類だ。これが仙女でなければ何なのだ?
レイカ:そうですね、昔のヒトからすれば確かに仙人ですよね。
..レイカも笑う。
E :すると「トシシユン」というネーミングは正解だったって訳だ。一人の仙人を生んだ。
レイカ:でも、霞では生きていけませんし、生臭い欲望もありますよ。
E :けっこう、けっこう。ワシは思うんだけどね、悟りの境地っていうのは、決して「悟りを求めない境地」じゃないかな。だから、煩悩大いに結構だよ。
レイカ:「悟りを求めない境地」…ですか。
E :そこまで達すれば、本物だろうな。「悟ろう」とあせる人間に、決して「悟らない境地」は訪れない。…ところで、クリコくんはどうなりそうかな?
..クリコは検察に送付された。本人は一番厳しい罰を望んでいる。だから恐らく実刑がくだされるとレイカは考えている。
E :そうか。それがいいだろう。
..今度クリコを訪ねるとき、駅ホームでのカズヤとサオリの姿を見せようと思う。<二人は結婚する。クリコはどんな反応をするだろう>そう思うと少し嬉しくなる。
レイカ:「共生」ってなんでしょうね?
..レイカが、独り言を呟くように問いかける。
E :おや?キミからその言葉を聞くとは思わなかったよ。結婚のことかな?どうもワシには共生というのがピンとこなくて。
レイカ:ボダイはATでしたよね?
..「共生AT型」というのは、伝統的な結婚パターン、夫と妻それにその子たちが「家族」を構成するタイプの事だ。結婚を意味する「共生」には、ATからCUまで6パターンあり、家族の概念も、「団家族」「個家族」「準家族」など数パターンある。どの組み合わせでも任意なので、結婚と家族構成はさまざまであり、かつ流動的だ。変わったタイプといえば、妻も子もロボトミーで家族を構成する例さえある。よって、現実には「共生」は定義不能でさえある。
E :そう、ATだよ。古いタイプさ。いまや絶滅危惧種だな。
..Eは大きな声で笑う。レイカの心にカズヤとサオリが浮かんだ。
レイカ:わたしも共生するならATがいいかな。
E :どうした?人恋しくなったのかな?
レイカ:わかりません。最近へんな夢を見た気がします。未来から良く知っているはずの者が私を訪ねて来たんです。
E :ほー、それで?
レイカ:未来のわたしは、どんな共生を選んでいるか、聞いておけばよかったと後で思いました。
E :聞くのは怖くないかな?
レイカ:ちょっぴり。
E :個人の事も、社会の事も未来は分からない方がいいよ。いや、知らないように積極的であるのがいい。ワシはそう思う。
レイカ:そうですね。
..そしてEは、突然高笑いした。
E :うっ-haha,もっと進んで「あの世」の調査を託されたらどうするね?
レイカ:あの世!、まさか!
E :そうなったら、キミは仙女さえ超えて「天女」だ。
..一呼吸の間があって、二人とも吹き出した。
E :そして、命令されるかも知れないよ。「江戸前期に、三保の松原に重力コントローラーで舞い降り、漁師の生活を調査する。そのために漁師と結婚して子供をもうける事」ってな。
レイカ:なんですか、それ!
..二人は、大爆笑だ。そしてレイカは立ち上がると手を打った。
レイカ:わかった!わたしが仙女ならボダイは仙人ですよね。ボダイは、奈良時代後期の吉野に行かれてクメと名乗られたでしょ?
E :ん?
レイカ:そして、吉野川で洗濯をしている若い女性の白い脹脛(ふくらはぎ)にクラクラっときて、コントローラー操作を誤って落ちたんですよね。
E :おい、おい。
レイカ:だめじゃないですか。大変な評判になって本にまで書かれてしまいましたよ。
E :勘弁してくれよ。久米仙人はワシじゃないよ。
レイカ:ふふ、やっぱり、凡人であることが一番のようですね。
E :そういうこと。
レイカ:お陰さまで、今回の「トシシュン」では、ヒトの愚かさ、いとおしさ、それに情愛、随分いろんなことを学びました。わたし、当分は人間でいることにします。
..見上げると富士が夕日に赤く染まっていた。



オペレーション「トシシュン」 完





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